全基地撤去へ不屈の闘い続く沖縄 辺野古新基地を許さない

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週刊『前進』04頁(3192号02面01)(2021/04/26)


全基地撤去へ不屈の闘い続く沖縄
 辺野古新基地を許さない



(写真 土砂の搬入が行われる名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前に立ちはだかる【4月8日】)

(写真 座り込む人の両手両足をつかみ強制排除する機動隊)
(写真 沖縄戦戦没者の遺骨を含む土砂の使用計画に抗議するハンスト現場には多くの人々が激励に集まった【3月6日 那覇市】)

(写真 土砂を搬出する名護市安和の琉球セメント社桟橋付近での阻止行動。トラックを運転する労働者にも基地反対をアピール)

(写真 ハンストを決行した遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」の具志堅隆松代表)

(写真 注目を集めた豊見城市役所前の座り込み行動【4月7日】)


 米中対立の果てしない激化が東アジアの軍事的緊張を著しく高める中、まもなく「本土復帰」から49年を迎える沖縄で、米軍基地に対する広範な怒りと反戦・反基地の闘いが燃え広がっている。新基地建設を不屈に阻止し続ける辺野古現地闘争をはじめ、沖縄の闘いの現場を取材した。(本紙・水樹豊)

体を張って工事を止める

 米軍の新基地建設のために海の埋め立て工事が行われている名護市辺野古のキャンプ・シュワブゲート前で、体を張った基地建設阻止の闘いが続いている。
 2018年12月に当時の安倍政権が土砂投入に踏み切って以来、埋め立てに使われる土砂や工事用資材の多くはキャンプ・シュワブ正面ゲートからトラックで搬入されている。搬入は1日3回(午前9時、正午、午後3時)。これに対し、ゲート前に座り込み「1分1秒でも工事を遅らせる」闘いが不屈に続いている。私たちも手作りのボードを持ち座り込みに参加した。
 この日の参加者は40人ほどだったが、誰もが「辺野古に基地はつくらせない」という固い決意で座り込んでおり、機動隊も簡単に手出しはできない。到着した工事用トラックは進入を阻まれ、何百㍍も先まで長い長い列をつくる。
 機動隊との対峙(たいじ)が続く中、男性がマイクで訴える----「今、ミャンマーでは治安部隊によって多くの市民が殺されている。本当に許せない。軍隊や警察といった国家の暴力装置がなんでもできるようになったら何が起こるか。それは沖縄戦でも示されたことだ。二度とそんなことにはさせない。アジアの平和なくして日本の平和はない。戦争のための基地は絶対につくらせない!」。
 やがて機動隊が一人ひとりの手足をつかんで強制排除を始めた。抗議のシュプレヒコールは最後の一人が排除されるまで続いた。
 警察権力に排除されるのは確かに悔しいが、長蛇の列をなす何十台ものトラックの渋滞はなかなか「壮観」だ。連日の粘り強い座り込みがどれほど工事を遅らせ、日米政府の思惑を打ち砕いているか。その効果は絶大だと確信できる。記者は2年前の5・15闘争時にも同じゲート前で座り込みに参加したが、その時は本土から駆け付けた青年労働者をはじめ250人が立ちはだかり、搬入作業そのものを断念させた。一人でも多くの人が駆け付ければそれだけ工事は遅れ、さらに人数が増えれば工事は確実に止まるのだ。実際、沖縄県の試算によると、土砂投入開始から2年が経過した昨年12月の時点で、工事の進捗(しんちょく)率は建設計画全体のわずか3・8%にすぎない。
 昼前の休憩時間中には、「若い人が来てくれてうれしい」と声をかけられ、お弁当の差し入れまでいただいた。午後からは、埋め立て用土砂を搬出する名護市安和の琉球セメント社桟橋付近での抗議行動にも参加した。砂ぼこりと排気ガスが充満する中、メッセージボードを掲げて工事用トラックの前をゆっくりと横切り土砂を辺野古へ運ばせないよう訴える。ハードな闘いだが、この行動もすでに2年以上継続されている。

建設計画はすでに大破綻

 振り返れば「辺野古」をめぐる攻防は四半世紀にわたる(年表)。発端は1995年9月----米兵3人による少女暴行事件を機に、本土復帰後23年を経ても変わらない「基地の島」の現実に怒りが爆発し、同年10月21日の県民大会に8万5千人、全島で10万人が「平和な沖縄を返せ!」と叫んだ。これを受けて当時の大田昌秀県知事が軍用地使用を認める代理署名を拒否するに至り、日米安保は根本から揺るがされた。
 日米政府は事態を収拾するためSACO(沖縄に関する特別行動委員会)を設置、96年4月12日に「今後5〜7年以内の普天間基地返還」を電撃的に発表するが、その3日後に出されたSACO中間報告で「十分な代替施設の完成」が普天間返還の条件とされた。しかもそれは単なる「移設」でも「代替施設」でもなく、最新鋭設備を備えた巨大新基地を辺野古に建設する計画であることがやがて明らかになった。
 99年には当時の稲嶺恵一知事と岸本建男名護市長が「使用期限15年・軍民共用空港」などの条件付きで受け入れを表明するが、2004年以降の陸と海での実力阻止闘争によってボーリング調査を阻まれ、計画は事実上の白紙撤回に追い込まれる。これに対して日本政府は、06年5月の「米軍再編ロードマップ」に基づきV字型の2本の滑走路を持つ新たな基地建設計画を閣議決定した(図)。「使用期限15年」などの約束も一方的に破っておきながら、政府は99年に地元の合意は得たと称してこの計画を進めている。
 だが、大浦湾側に突き出したこの基地計画は、海底に「マヨネーズ状」と呼ばれる軟弱地盤が見つかったことで抜本的見直しを迫られ、当初3500億円と見込んだ総工費は2・6倍の9300億円に膨張。地盤改良には7万1千本もの杭を海底に打ち込む前例のない大規模工事が必要とされ、基地の完成も「2030年代以降」と大幅に後ろ倒しされたが、実際のところまったく完成のめどが立たない状況だ。
 辺野古新基地計画は今や大破綻し、四半世紀にわたる新基地阻止闘争は確実に勝利へと向かっている。今回、辺野古を訪れて改めてそのことを確信した。

遺骨含む土で埋め立てるな

南部土砂採取に怒り 戦没者を二度殺すのか

 辺野古の埋め立てに、沖縄戦の戦没者の遺骨を含む本島南部地区の土砂が使われようとしていることが発覚し、沖縄全島で怒りの声が沸騰している。

県庁前でハンスト

 沖縄防衛局は、埋め立てに使う県内土砂調達可能量の約7割を、沖縄戦の激戦地だった糸満市と八重瀬町から採取することを計画。昨年11月にこの事実が発覚すると、沖縄戦戦没者の遺骨を収集して遺族に返す活動を長年続けてきたボランティア「ガマフヤー」の具志堅隆松代表(67)は、ただちに防衛局に土砂採取予定の現場を調査するよう要請した。しかし防衛局からは何の返答もなく、今年2月に改めて土砂採取の断念を申し入れたが、防衛局はやはり何の手立ても講じようとしなかった。
 危機感を募らせた具志堅さんは、この問題を多くの人々に知らせなければと3月1〜6日に那覇市・沖縄県庁前の県民広場でハンガーストライキを敢行。これが地元紙やニュースで大きく取り上げられ、沖縄戦経験者も含む多くの人々が支援・激励に集まった。辺野古からハンスト現場に駆け付けた島袋文子さん(91)は、沖縄戦の体験を語りながら「遺骨や血の混じった土砂で辺野古を埋め立てるのは、戦没者を二度殺すということだ」と憤った。

抗議の闘いが拡大

 具志堅さんの強い働きかけもあり、4月13日までに県内41市町村のうち14の市町村議会と沖縄県議会で、「遺骨などが混入した土砂の埋め立てへの使用」に反対する意見書が可決されている。その一方で豊見城市議会は3月26日、採石業者の利害を優先して意見書を否決した。これに対し、同市でトマト農家を営む金城博俊さん(43)は、審議のやり直しを求める市役所前座り込みと署名活動を同級生や友人らと共に始めた。
 「自分たち市民が選んだ議会の代表が間違った判断をするなら、それを正すために自分たちで行動しなければならないと考えた」----座り込みの現場を訪れた私たちに、金城さんは固い決意を込めて語った。この日は日が沈んでからの座り込みだったにもかかわらず、新聞などで知った人が次々と署名をしに訪れ、金城さんに激励と感謝の言葉をかけていく。「反応はとてもいいですね。行動を起こしてよかったと思います」。朗らかに語る金城さんの表情には、辺野古で阻止行動を闘う人々と同じ熱意が感じられた。

沖縄戦の証言聞く

 4月9日、具志堅さんが参考人招致された県議会を傍聴した。
 「激戦地だった場所から土砂を採取すれば、遺骨が混ざることを回避するのは技術的に無理。その土を埋め立てに使うのは戦没者への冒涜(ぼうとく)だ。土を掘り返すだけでも複数人の遺骨が混ざってしまい、誰の遺骨かを特定して遺族の元に返すことが困難になる」----長年にわたり遺骨収集を続けてきた経験と専門的知見を踏まえ、具志堅さんは切々と訴えた。
 具志堅さんの補助者として沖縄戦経験者の喜屋武幸清さん(83)と奥田千代さん(79)の2人が発言した。喜屋武さんは沖縄戦で、母親と共に摩文仁(現・糸満市)の壕(ごう)に逃げ込んだ際、「子どもは泣き声を上げるから中に入れるな」と日本兵に銃を突きつけられ、母親の嘆願で自分と上の弟は壕の中に入れたものの、下の弟と妹は外に置き去りにさせられたと声を震わせて証言。「これが戦争なんだ。その犠牲者の遺骨が混じった土で、なんでまた戦争のための基地をつくろうとするのか。自分は83歳だがあと20年生きて戦争体験を語る。このままでは死ねない!」と叫び、議場を圧倒した。

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辺野古新基地建設をめぐる関連年表
1995年9月 米兵による少女暴行事件
   10月 沖縄県民大会8万5千人―全島10万人が決起
 96年4月 日米政府、5~7年以内の普天間基地返還で合意
   9月 県民投票で89%が「米軍基地の整理・縮小」に賛成
   12月 日米政府、普天間の「代替」と称して沖縄本島東海
      岸沖に新基地を建設するSACO最終合意を了承
 97年1月 日米政府、名護市辺野古への新基地建設案で合意
   9月 日米安保ガイドライン改定
   12月 名護市民投票で海上基地建設「反対」が多数に
 99年5月 周辺事態法成立
   11月 稲嶺県知事、普天間代替施設として辺野古に「15年
      使用期限付き軍民共用空港」の建設を表明
   12月 岸本名護市長が稲嶺知事の要請を条件付きで承認
      日本政府も同じく「軍民共用空港」建設を閣議決定
2001年9月 9・11事件(10月、テロ対策特措法成立)
 03年3月 イラク戦争開戦(7月、イラク特措法成立)
   6月 武力攻撃事態法など有事3法成立
 04年4月 辺野古沖のボーリング調査開始を実力闘争で阻止
   8月 沖縄国際大学に普天間基地所属の米軍ヘリが墜落
 05年9月 那覇防衛施設局、ボーリング調査を事実上断念
   10月 日米2+2で新たな基地計画発表
 06年5月 日米政府、滑走路2本をV字に配置した辺野古新
      基地を含む「米軍再編ロードマップ」に合意。日本
      政府は新計画を閣議決定し99年の閣議決定を破棄
 07年9月 教科書検定意見撤回を求める県民大会に12万人
 10年4月 県外・国外移設を求める県民大会に9万人
 12年10月 オスプレイ普天間配備反対県民大会に9万5千人
 13年11月 自民党沖縄県連、「県外移設」の公約を覆し辺野古
      容認(→12月、同じく仲井眞知事が埋め立て承認)
 15年9月 集団的自衛権行使を含む安保戦争法成立
   10月 翁長知事が埋め立て承認を取り消し
 17年2月 辺野古で海上工事着工
 18年8月 県が埋め立て承認を撤回。県民大会に8万人
   12月 埋め立て海域に土砂投入開始
 19年2月 県民投票で7割が辺野古新基地に「反対」
 21年1月 辺野古新基地への陸上自衛隊常駐計画が発覚

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「復帰」49年・全島ゼネスト50年
5・15沖縄集会
 5月15日(土)午後6時開場
 沖縄県青年会館大ホール(那覇市久米2―15―23)
 *午後4時から那覇市内デモ(県庁前県民広場集合)
 主催/改憲・戦争阻止!大行進沖縄 共催/国鉄闘争全国運動・沖縄

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