大坂正明同志は無実 第32回公判 「私は殴打していない」 大坂正明同志が堂々と証言

週刊『前進』04頁(3304号04面01)(2023/07/24)


大坂正明同志は無実
 第32回公判
 「私は殴打していない」
 大坂正明同志が堂々と証言


 1971年11・14沖縄返還協定批准阻止の渋谷暴動闘争に決起し「殺人罪」をでっち上げられた大坂正明同志の第32回公判(東京地裁刑事第4部・高橋康明裁判長)が、7月18日に開かれた。被告人質問が行われ、大坂同志が弁護団の質問に答え、自らの無実を全面的に明らかにした。
 大坂同志は無実だ。大坂同志は、11・14闘争に向かう自らの思いや闘いを振り返りながら、権力のでっち上げを徹底的に弾劾し、無実を明らかにした。
 「1968年に千葉工業大学に入学した。当時はベトナム戦争や安保闘争、三里塚や大学闘争で社会が揺れていた。初めて運動に参加したのは1年の時、樺美智子さん追悼の6・15集会だった。樺さんは60年安保闘争に参加し国会前の機動隊との衝突で亡くなった。その遺稿集を読み、誠実な人だと感動してのことだった」
 「71年の闘いは三里塚闘争と沖縄闘争だった。三里塚では2〜3月、7月、9月に強制代執行阻止の大闘争があり、現地に常駐して闘った。三里塚は、開拓農民の土地を軍事空港建設のために政府が暴力的に取り上げようとするものだった。母の実家が北海道の開拓農民で、農家の生活の厳しさは自分も知っていた。他人ごとではないと思い、三里塚に駆け付けた」
 「沖縄県民の願いは基地撤去だった。だが政府は県民の平和への願いを踏みにじり、核と米軍基地をそのままに、自衛隊基地まで増強するペテン的返還だった。沖縄では2度のゼネストやコザ暴動など、巨大な闘いが巻き起こっていた。本土の人民として、これに応えなければならないと強く思った。暴動は抑圧された民衆の怒りの爆発である。中核派はこれを公然と打ち出すことで、6月の調印阻止闘争を超える闘いが求められていることを訴えた。全学連や反戦の闘いと民衆の怒りとの合流を目指して立ち上がった。首都・東京は政治の中心であり、ここを揺るがす大闘争が必要だった」
 このように闘いを振り返った大坂同志は、続けて11・14闘争当日の自らの行動を明らかにした。「大きな交差点でパトカーが止まっていた。これを追い払おうとデモ隊から火炎びんが飛び、逃げるパトカーを数人で追いかけた。結果としてデモ隊から遅れた。殴打現場とされる場所では30〜40人がとどまっていた。隙間から倒れている機動隊が見えた。殴っている人は見ていない。私は殴打していない。火炎びんも投げていない」とはっきりさせた。
 そして星野文昭同志とともに指名手配されたことに関して「9月の三里塚闘争で千葉の学生だった私は、行動隊長だった星野さんと一緒に大木よねさんの家の付近の調査をしたり、星野さんのもとでデモ指揮をしたりしていた。星野・大坂のセットで目をつけられていたので、警視庁は11・14も星野・大坂のセットで考えたのではないかと思っている」「弾圧やカクマルの襲撃で大変だった関西に全学連の応援部隊として駆け付け闘っているとき、指名手配になったことを知った。以後46年、でっち上げ弾圧と闘ってきた」と、警察権力を弾劾した。
 この日は傍聴に入れなかった仲間が裁判所前で大坂同志の保釈を求める街宣を展開した。無実の大坂同志と団結し、絶対に取り戻そう。保釈を求める要望書を集めよう。8月26日、台東区民会館で開かれる大坂さん保釈奪還総決起集会に結集しよう。
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