天皇の硫黄島訪問弾劾 戦死を美化し戦争動員狙う
週刊『前進』04頁(3392号03面02)(2025/04/21)
天皇の硫黄島訪問弾劾
戦死を美化し戦争動員狙う

日本帝国主義・石破政権は「戦後80年」の今年、天皇を前面に押し出し、排外主義、「祖国防衛」イデオロギーの鼓吹をもって中国侵略戦争への国民動員攻撃を強めようとしている。
天皇ナルヒトは4月7日、第2次世界大戦で日米戦争の激戦地となった硫黄島を皇后とともに訪問した。旧日本軍将兵の戦死者顕彰碑や、徴用され犠牲となった島民82人の碑、日米両軍の戦死者追悼の丘などを巡り、遺族と懇談した。
マスコミはこれを「戦後80年の『慰霊の旅』始まる」と持ち上げている。天皇はこれに続き6月に沖縄と広島、9月に長崎を訪れようとしている。一連の「慰霊の旅」は天皇の戦争責任を居直り、戦死者を「英霊」化し、帝国主義戦争・侵略戦争を「祖国防衛の聖戦」として正当化するためである。その狙いは、中国侵略戦争への天皇のもとでの国民総動員体制の構築にある。
硫黄島には直前の3月29日に米国防長官ヘグセスと石破、中谷防衛相が訪れ、日米双方の戦死者の合同慰霊式を行った。激しく戦った日米が今や手を組んで共同の敵=中国と戦うのだという構図を「演出」し、石破は「日米同盟を新たな高みに引き上げる」と表明した。天皇の同島訪問はこれと一体の攻撃である。
硫黄島には戦前、約1千人の島民が農業や漁業で暮らしていたが1944年、103人を残して本土に強制疎開させられた。45年2月19日に米軍が上陸し、1カ月間の戦闘で日本軍約2万2千人、米軍約7千人が戦死した。軍属として残された島民も大半が殺された。戦後、米帝が統治し68年に日本に返還されたが、その後は海自の航空基地が置かれ、島民の帰還は今も認められていない。
硫黄島の戦闘に先立つ45年2月14日、日米戦争における日本の敗戦が決定的になる中で近衛文麿元首相が「国体護持」の立場から早期終戦を天皇ヒロヒトに進言した。だが天皇は「もう一度戦果をあげてから」と言ってこれを拒否した。これによって沖縄や硫黄島は本土(皇土)防衛の「捨て石」とされ、兵士と住民が大量に殺される戦闘が強制された。まさに天皇と天皇制こそ、アジア侵略戦争での2千万人虐殺、沖縄戦と硫黄島戦、広島・長崎への原爆投下、戦後の沖縄圧殺の最大の元凶なのだ。
ナルヒトは2月の記者会見で第2次大戦の戦死者や遺族を「追悼」して「苦難の道を歩まれた方々に、改めて心を寄せていきたい」と語った。だが天皇は一度も天皇の戦争責任を認め謝罪したこともない。その天皇の発言が意味するものは「天皇制護持のために皆よく戦った」「これからもお国のために戦って死ね」ということでしかない。こんな開き直り、帝国主義戦争美化、人民大虐殺の美化を絶対に許してはならない。
天皇を押し立てた「戦後80年」攻撃を、「連帯し、侵略を内乱へ」の路線のもとに4―5月安保・沖縄闘争の大爆発で粉砕しよう。
