日韓条約調印から60年 侵略と植民地支配を居直り朝鮮-アジア再侵略を画策
日韓条約調印から60年
侵略と植民地支配を居直り朝鮮-アジア再侵略を画策

1965年の日韓基本条約調印から、6月22日で60年を迎える。今日に至るまで日韓関係を規定してきた日韓条約をめぐる問題の核心は、日本帝国主義が朝鮮に対して行った侵略と植民地支配の一切を正当化して居直り、謝罪も賠償も拒否したことにある。日帝が再びの中国侵略戦争へと突き進む今、改めて日韓条約とそれに対する韓日労働者民衆の闘いをとらえ返し、南北朝鮮人民、在日朝鮮人民との連帯にかけて日帝打倒の闘いを爆発させる一助としたい。
「反共の共同戦線」求め米帝が後押し
1945年の日帝敗戦により「光復」=解放をかちとった朝鮮人民は、闘いの爆発に対する米軍の血の弾圧を経て48年、アメリカ帝国主義とソ連スターリン主義による南北分断を強制された。49年に中国革命が勝利すると、アジアにおける「反共の防波堤」として、米帝の軍事基地国家とされた南朝鮮=韓国の位置づけは決定的に高まった。
そして50年に朝鮮戦争が始まる中、「共産主義に対する共同戦線」が「戦争の遂行にとって緊急に必要」だとみた米帝の後押しを受け、51年に開始されたのが日韓会談だ。以降14年にわたる会談は日米安保体制の構築と並行して行われ、ベトナム戦争渦中の65年、朴正熙(パクチョンヒ)軍事独裁政権と日帝・佐藤政権との間で日韓条約調印と「国交正常化」に至った。
第1次会談で「謝罪」も「賠償」も一切ない「日韓友好条約」案を示して以来、日本側は侵略と植民地支配、戦争犯罪を居直り正当化する姿勢を貫いた。53年の第3次会談では、首席代表の久保田貫一郎が「日本としても朝鮮の鉄道や港を造ったり、農地を造成したりした」と主張し、植民地支配を正当化した。韓国人民の怒りが爆発して会談が決裂すると、日帝は「会談全般を一方的に破壊した」と韓国側を非難した。
また、第7次会談で首席代表を務めた高杉晋一も65年、「日本は朝鮮を支配したというが、わが国はいいことをしようとした」と平然と述べた。こうした数々の暴言は「失言」ではなく日帝の見解そのものだ。
会談粉砕へ日韓の学生先頭に大デモ
韓国人民は怒りを燃やして闘いに立ち上がり、64年3月には大学生を先頭とする6万人のデモで第6次会談を中止に追い込んだ。パクチョンヒは戒厳体制を敷いて集会やデモを禁止したが、65年8月の国会批准までに3千人もの逮捕者を出した大闘争は日韓の支配階級を震え上がらせた。
韓国人民が真っ向から「日本帝国主義打倒」を掲げて闘う中で、日本共産党は「日本もアメリカの植民地」だとして日帝を免罪し、社会党は「国益」の観点から「韓国に譲歩しすぎ」などと批判し、その闘いに敵対した。しかし、革共同を先頭とする革命的左翼は「この闘争は、日本帝国主義打倒の第一歩」「日本帝国主義と朴政権の限りない暴虐に南朝鮮学生がさらされているのに沈黙しかなしえないならば、戦前における日本帝国主義の朝鮮人民への血の弾圧(三・一独立闘争、関東大震災における朝鮮人虐殺等)に抗して闘うことができなかった日本労働者階級の悲劇をくり返すことになる」(64年6月8日付本紙187号)とし、日韓条約粉砕の闘いに立ち上がった。
それは、日韓会談―日韓条約締結策動の本質が日帝による朝鮮再侵略策動に他ならないことを明確にさせた唯一の闘いだった。そこにはまた、日本における戦後革命の敗北が朝鮮人民の闘いに打撃を与えたことへの痛苦な反省もあった。
賠償拒否し日帝の経済侵略へ道開く
こうして両国の反対運動に包囲される中で調印された日韓条約は、第2条で「1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効である」と確認した。「もはや無効」の文言は、日露戦争以降、日帝が大韓帝国の植民地化を完成させた韓国併合条約調印(10年)に至る過程で結ばれた条約・協定を「かつては有効だった」と正当化し、それゆえ「謝罪も賠償も必要ない」と開き直ることを意味していた。
日韓条約に付随する日韓請求権協定では、日本側が韓国に有償2億㌦、無償3億㌦、民間借款3億㌦の計8億㌦を供与することが定められた。しかし、これらは賠償金ではなく「独立祝い金」「経済協力資金」とされ、使い道は日本の企業からの生産物・役務の購入に限定されるという「ひも付き」だった。それは軍事独裁政権を支えると同時に、朝鮮戦争での「特需」で成長した日帝企業が再び韓国への経済侵略を開始するための水路となった。侵略と植民地支配、戦争で塗炭の苦しみを強制した朝鮮人民に対して、日帝は一言の謝罪も、びた一文の賠償も行うことなく現在に至っている。
日韓労働者の連帯で軍事同盟粉砕を
にもかかわらず日本政府は、「徴用工(強制連行・強制労働被害者)」や「軍隊慰安婦」=日本軍による性奴隷制をめぐり「1965年の日韓請求権・経済協力協定で完全かつ最終的に解決済み」(外務省)との主張を繰り返してきた。元首相・安倍晋三が当時の韓国大統領パククネとの間で2015年に発表した「慰安婦合意」では、「慰安婦問題」の「最終的かつ不可逆的な解決」を確認し、闘いをたたきつぶそうとした。
しかし、そもそも国家間の取り決めで個人の請求権を消滅させることはできず、そのことは日本政府自身も1991年の国会答弁で認めている。高齢の被害者たちが世を去る中、日帝は再びの侵略戦争を決断したからこそ居丈高に戦争犯罪を居直り、抹消しようとしているのだ。絶対に許してはならない。
さらに日韓条約は、韓国の軍事独裁政権を「朝鮮半島の唯一の合法政府」とした。南北分断を前提とした「日韓国交正常化」は分断を固定化する犯罪的な役割を果たし、在日朝鮮人民に大きな影響を及ぼした。当時の法務省官僚・池上努の「(外国人は)煮て食おうと焼いて食おうと自由」という主張も「日韓協定に基づく永住権を取れなかった者や取らなかった者」の法的地位をめぐるものだ。
石破は、日韓、日米韓の協力をさらに活発化させることこそが「日韓国交正常化60周年の大きな意義」だと述べ、6月4日に新たに韓国大統領に就任した李在明(イジェミョン)との間で中国侵略戦争に向けた日米韓軍事同盟をいっそう強化しようと狙っている。
南北朝鮮人民、在日朝鮮人民と固く団結し、日帝打倒の大反戦闘争を巻き起こそう。
(佐々木舜)
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| 関連年表 | |
|---|---|
| 1904年2月10日 | 日露戦争勃発(~05年) |
| 8月22日 | 第1次日韓協約調印 |
| 05年11月14日 | 第2次日韓協約調印、日帝が大韓帝国を保護国化 |
| 07年7月24日 | 第3次日韓協約調印 |
| 10年8月22日 | 韓国併合条約調印 |
| 19年3月1日 | 朝鮮全土で三・一独立運動 |
| 45年8月15日 | 日本帝国主義敗戦=解放 |
| 9月8日 | 米帝が南朝鮮上陸、軍政開始 |
| 47年5月2日 | 日本で外国人登録令公布 |
| 48年4月3日 | 済州島で人民蜂起始まる(~55年) |
| 5月10日 | 南朝鮮で単独選挙強行 |
| 8月15日 | 李承晩、大韓民国成立を宣言 |
| 9月9日 | 朝鮮民主主義人民共和国樹立 |
| 49年10月1日 | 中華人民共和国成立 |
| 50年6月25日 | 朝鮮戦争勃発 |
| 51年10月20日 | 日韓会談始まる |
| 52年4月28日 | サンフランシスコ講和条約、日米安保条約発効 |
| 53年7月27日 | 朝鮮休戦協定成立、南北の軍事境界線を確定 |
| 10月1日 | 米韓相互防衛条約調印 |
| 60年4月 | 韓国で「4月革命」、李承晩打倒 |
| 61年5月16日 | 朴正煕が軍事クーデター |
| 64年3月下旬 | ソウルで数万人規模の日韓会談反対デモ続く |
| 65年6月22日 | 日韓条約および4協定調印 |
| 8月14日 | 韓国国会で批准 |
| 12月11日 | 日本国会で批准 |