『なにをなすべきか?』に学ぶ レーニン主義組織論を実践し「連帯し内乱へ」貫く党建設を 水樹 豊

週刊『前進』04頁(3404号04面01)(2025/07/14)


『なにをなすべきか?』に学ぶ
 レーニン主義組織論を実践し「連帯し内乱へ」貫く党建設を
 水樹 豊

(写真 1919年5月、モスクワの「赤の広場」で演説に立つレーニン)

 アメリカ帝国主義・トランプ政権のもとで中国侵略戦争・世界戦争情勢が激烈に加速され、日本帝国主義がこれと一体化して大軍拡と日米安保大転換=全土出撃基地化へ踏み出す中、この戦争を内乱に転化し革命を勝利に導く労働者階級の党の本格的建設が急務となっている。レーニン主義革命論・党組織論の最も重要な原典の一つである『なにをなすべきか?』は、この闘いの極めて強力な武器であり、その全内容は今こそ徹底的に学習・研究され、労働者階級の中に復権されなくてはならない。その一助となることを期して、前進社から拙著『原典解説 レーニン「なにをなすべきか?」』(以下『解説本』と略記)を刊行した。共に闘うすべての仲間に活用を呼びかけたい。

プロレタリア独裁めざす労働者階級の革命的前衛

 「レーニンの党組織論は、その当初から一貫して〈プロレタリア独裁のための党〉の組織論としてあるということです。プロレタリアートによる政治権力の奪取、そこに向かっての内乱と一斉武装蜂起の組織化ということを最初から明確に意識し、いわばそこから『逆算』して、党組織を今日的に不断に建設・強化していくという透徹した目的意識性に貫かれているのです」(『解説本』、序章)
 「『なにをなすべきか?』以来のレーニン主義的党組織論の最も際立った特徴は、党の基本的任務をプロレタリア独裁の実現におき、党の目的意識的な指導のもとにプロレタリア階級闘争をそこまで『引き上げる』ことを一貫した課題に設定し、まさにその観点に立って、日常活動から武装蜂起に至るまでのあらゆる状況に対応しうる柔軟性と堅忍不抜さを備えた党をつくりあげることを追求した点にあります」(同、結語にかえて)
 今回の『解説本』は、このようなレーニン党組織論の核心点を明確にさせることに最も重点を置きつつ、『なにをなすべきか?』の原著が手元にない人にもその内容が理解できるよう、原著からなるべく多くの引用を行い、その展開に沿って解説を加えている。その上で、何よりもプロレタリア独裁権力の樹立を基本的任務とする革命党の建設こそレーニン党組織論の核心にほかならないということを、『解説本』の全体を通じて明らかにしている。
 このような革命党はほかでもなく、プロレタリアートが自らの手でつくり上げていくものである。『なにをなすべきか?』の少し前に書かれた論文でも、レーニンは次のように訴えている。
 「『みずからを組織せよ!』と、新聞『ラボーチャヤ・ムィスリ』はいろいろに調子をかえながら労働者に繰り返し言っており、『経済主義的』傾向の支持者たちのすべてがこれを繰り返している。われわれも、もちろん、全面的にこの呼びかけに賛成するものではあるが、しかしわれわれは、かならずそれに付け加えてこう言う。ただ共済組合や、ストライキ基金や労働者サークルに自らを組織するだけでなく、さらに政党にも自らを組織し、専制と全資本主義社会に反対する断固たる闘争のために自らを組織せよ、と。……歴史上のただ一つの階級も、運動を組織し指導する能力のある自分たちの政治的指導者たち、自分の先進的代表者たちを送りだすことなしに、支配権を獲得したものはない」(「われわれの運動の緊要な諸任務」、レーニン全集第4巻)
 大衆運動家や組合活動家の単なる集合体ではなく、あくまでもマルクス主義で思想的・綱領的に武装した共産主義者の政治的結集体であり、同時にまたプロレタリアートが自らの支配権を獲得するための先進的代表者=最も鍛え上げられた階級の前衛として、党が建設されなければならないということだ。このことは一見すると「当たり前」のように思われるかも知れないが、現実の階級闘争の中でこのような党建設の基本原則を貫いていくためには、徹底した意識性が要求されるのである。
 『なにをなすべきか?』でレーニンが批判した「経済主義」の代表者たちは、党の基本的任務をプロレタリア独裁の実現に置くのではなく、またプロレタリア革命に向かってプロレタリアートの階級形成を推し進めていくのでもなく、逆にプロレタリアートの運動を「現瞬間の利益」の追求に限定し、党の政治的任務を改良主義的・組合主義的政治へと低め、しかもそれを「労働者の立場」とか「現実感覚」などと言って正当化していた。このような傾向は、現実の階級闘争の厳しさ、困難さから絶えず発生するのであり、今日のわれわれも決して無縁ではない。その意味でも『なにをなすべきか?』を学ぶことの今日的意義は非常に大きなものがあると言える。

革命の主体へと労働者を獲得する共産主義的政治

 重要なことは、レーニンが提起した党組織論とは、もともとマルクス・エンゲルスが『共産党宣言』以来一貫して主張してきた革命党の考え方を原則的に継承し、それを20世紀ロシアの現実の階級闘争に適用して豊かに発展させ、資本主義の帝国主義段階におけるプロレタリア革命党の組織論として確立したものであるということだ。したがってそれは、何よりもプロレタリアートを資本主義社会における唯一の革命的階級と規定し、その上でいかにしてプロレタリアートを実際に「革命の担い手」として組織し教育していくかという、実践的観点から一切を論じているのである。
 まさにこのような階級観とそこから必然的に出てくる革命戦略という点で、レーニンと経済主義者との間には根本的な対立がある。これは全5章から成る『なにをなすべきか?』の全編にわたり、一本の赤い糸のように貫かれる対立軸をなしており、特に共産主義的政治と組合主義的政治の相違を論じた第3章ではそれが鋭く現れている。
 すなわち経済主義者は、プロレタリアートを目先の経済的利害にしか関心をもたない集団のようにみなしているので、当面する闘争課題としては「もっぱら経済的な改良だけを(それどころか、もっぱら工場内の状態の改良だけを)」取り上げ、政治的な課題については「経済を基盤とする政治的扇動」といった形でしか取り上げようとしない。これに対してレーニンは、ロシアの労働者大衆は「自分たちの目に見える成果をなにひとつ約束しない場合にさえ、専制にたいするあらゆる抗議を積極的に支持する能力」をすでに示しているではないかと反論し、次のように訴えた。
 「労働者階級の注意や観察力や意識をもっぱら、でないとしても主として、この階級自身にむけさせるような人は、社会民主主義者ではない。なぜなら、労働者階級の自己認識は、現代社会の全ての階級の相互関係についての、完全に明瞭な理解……と、不可分に結びついているからである」
 「こういう『明瞭な理解』は、どんな本からも借りてくることはできない。そのような理解は、現在われわれのまわりにおきていること……を生きいきと描写し、すぐその場で暴露することによってのみ、あたえることができるのである。こうした全面的な政治的暴露こそ、大衆の革命的積極性をそだてあげるのに必要な基本的条件である」
 このように、レーニンが工場内の経済的暴露という狭い枠にとどまらず、「現代社会の全ての階級の相互関係」についての理解をもたらすような「全面的な政治的暴露」の必要性を訴えたのは、あくまでも労働者階級を革命の主体として位置づけ、全人民を圧政と搾取から解放する指導的階級として彼らを組織しようとしているからである。またレーニンは、経済主義者らが「経済闘争そのものに政治性をあたえる」として、政治闘争の中身を労働者の職業的・経済的利益の獲得へと低めてしまうことを同じく第3章で厳しく批判しているが、このような経済主義者の態度は、今日のわれわれにひきつければ、反戦闘争をストレートに訴えるのではなく個別の職場課題へとその中身をすり替えてしまう傾向とも酷似している。ここで問われていることは、一方では、職場課題と接続しないと決起できない存在のように労働者階級をみなしていないか、ということであり、他方では、文字通り「革命の担い手」として(今日的には戦争を内乱に転化する主体として)労働者階級を組織するために、狭い経済的暴露にとどまらず全面的な政治的暴露を行わなければならないという、共産主義者(の党)の任務を正しく位置づけていないのではないか——ということである。
 こうした問題は、今日のわれわれの運動の中で繰り返し問われることだと言える。階級観と革命戦略(党の任務)の両面でレーニンの『なにをなすべきか?』が経済主義者への批判として強調した内容をしっかりと血肉化し、今日の党と運動の飛躍の糧としていきたい。

人民の怒りを一つに結集する中央集権的な組織を

 さらにレーニンは、続く第4章で、「政治的反対や抗議や憤激のありとあらゆる現れを結びつけて一つの総攻撃にする全国的な中央集権的な組織」「職業革命家からなりたち、全人民の真の政治的指導者たちに率いられる組織」の建設を訴え、またそのような組織の建設のために全国的政治新聞(機関紙)の発行が不可欠であることを第5章で明らかにしていく。これらの部分の記述には、一切の民主的権利を奪われた当時の専制ロシアの特殊事情が反映されているため、あたかも他の国や時代には適用できないものであるかのように扱われる向きがあったが、今回の『解説本』はそのように切り捨てるのではなく、むしろ今日的にも通じる教訓を積極的につかみだすことに重きを置いた。
 『なにをなすべきか?』の第4章、第5章の展開で特に興味深いのは、警察権力のあらゆる弾圧にうち勝つことのできる「革命家の組織」として党を建設することを通じて、運動全体に一貫性と継承性が生まれ、それによって運動への最も広範な大衆の参加をかちとることができ、また最も広範な大衆の中から指導者を生み出すこともできるようになる——と論じられていることである。党建設と最も広範な大衆の政治的結集・決起との弁証法的な相互関係が提起され、それを媒介するものとして全国的政治新聞(機関紙)の意義が強力に確認されているのである。
 また『解説本』では、レーニンの意図に沿った『なにをなすべきか?』の正確な理解のため、やや踏み込んだ形で説明が必要と思われる点について二つの「補論」を付けた。一つは、いわゆる「外部注入論」について、これをレーニンの「大衆蔑視」や「エリート主義」の現れのようにとらえることの誤りを徹底批判し、労働者階級がブルジョア・イデオロギーの支配を振り払って階級意識を獲得していく過程と、そこにおける党の役割を明確化させたものとして、レーニンの展開を読み解いている。
 今一つは、「『職業革命家の党』とレーニン党組織論の発展」と題して、革命の事業における職業革命家の果たすべき決定的な役割を明確にさせ、併せてレーニン・ボリシェビキがいかにして1917年ロシア十月革命の勝利への道を切り開いていったのかを、レーニン党組織論の発展と一体で論じている。なお、本書の締めくくりとなる「結語にかえて」の箇所では、レーニンにおけるプロレタリア独裁論と党組織論との「固有の結びつき」について総括的に再論し、この点についてのローザ・ルクセンブルクとトロツキーの致命的な誤りにも言及した。
 「自己の党に徹底して依拠し、その発展にいっさいの局面打開の能力を確信できる者だけが歴史の勝利者たりうる」(『本多延嘉著作選』第2巻所収「第四インターの歴史的破産」)。本多同志が強調したこの歴史の教訓をわがものとすることは、今回の『解説本』の実践的結論でもある。『なにをなすべきか?』を武器に、「連帯し、侵略を内乱へ」を貫く強大な革命的労働者党の建設をかちとろう。
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