朝鮮人・中国人虐殺くり返すな 関東大震災・虐殺102年 9・1錦糸町デモへ 中国侵略戦争阻む反戦闘争を
朝鮮人・中国人虐殺くり返すな
関東大震災・虐殺102年
9・1錦糸町デモへ
中国侵略戦争阻む反戦闘争を

7月の参院選を契機にあふれ出した外国人差別・排外主義に対し、在日朝鮮人・中国人をはじめ外国にルーツをもつ多くの人々が深い恐怖と悲しみ、怒りを感じている。在日の人々にとっても、日本労働者階級にとっても、関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺は単なる「102年前のできごと」ではない。とりわけアジア人民に対する差別・排外主義は、台湾・朝鮮への侵略と植民地支配を通して帝国主義としての土台を確立し、延命してきた日本帝国主義が一貫して人民支配の道具としてきたものだ。過ちを絶対に繰り返してはならない。虐殺の実相を見据え、在日朝鮮・中国人民、差別・排外主義に怒るすべての人々とともに、今こそ日帝打倒・中国侵略戦争阻止の巨大な闘いをつくり出そう。9・1錦糸町反戦デモに大結集しよう。
政府が流言を拡散し扇動
1923年9月1日午前11時58分、マグニチュード7・9の巨大地震が関東地方を襲った。各地で火災が発生し、当時の東京市は44%、横浜市は実に80%が焼失。被災者は約340万人、死者は約10万5千人に上る甚大な被害がもたらされた。このような空前の大災害のただ中で行われたのが、軍隊や警察、自警団などによる朝鮮人・中国人の虐殺だ。今なお全容は明らかになっていないが、少なくとも朝鮮人約6千人・中国人約800人が命を奪われたといわれる。
この大虐殺の背景に、震災直後から被災地で流された、「朝鮮人が暴動を起こしている」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などの「流言飛語」があることは確かだ。しかし、これを「混乱の中でデマを信じてパニックに陥った民衆が自発的に朝鮮人を殺した」と描くことは誤りであるばかりか、真実を覆い隠すものだ。それは、植民地帝国・日帝中枢が意図的に流言を拡散して軍や警察を出動させ、労働者民衆を動員して実行した大量殺戮(さつりく)だった。以下、震災直後の治安当局の動きを追う。
警察や自警団が大虐殺の先頭に
9月1日の震災直後、真っ先に動いたのは軍だった。午後には陸軍が東京の近衛師団と第1師団に非常警備命令を発令。夜半には東京・四ツ木などで朝鮮人虐殺が始まった。翌2日には、東京市と周辺5郡に戒厳令が敷かれた。内務大臣・水野錬太郎はその際の通知で「朝鮮人にしてバクダンをたずさえて横行するものあり。社会主義その他不逞(ふてい)無頼の徒これに和し放火掠奪(りゃくだつ)いたらざるなし」などと断定している。武器の使用許可を伴う戒厳令の布告自体が朝鮮人への「宣戦布告」に他ならなかった。この日、東京・小松川や四ツ木で軍による虐殺も始まり、各地で在郷軍人や消防組、青年団などからなる自警団が次々と結成された。
その後、戒厳令の施行地域は東京府全域・神奈川県(3日)、千葉・埼玉両県(4日)へと拡大した。
3日の朝には、内務省警保局長名で「東京附近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於(おい)て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。......各地に於て充分周密なる視察を加へ、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加へられたし」との電文が千葉県の海軍無線電信所船橋送信所から発信され各地方長官に伝えられた。政府は「朝鮮人の暴動」という流言を打ち消すどころか、それを事実として拡散し、人民を虐殺に駆り立てたのだ。
ある兵士は小松川で目にした光景をこう記した。「日本刀竹やり等を以て鮮人殺さんと血眼になって......軍隊が到着するや在郷軍人等非常(情の誤りか/引用者注)なものだ。鮮人と見るや......惨殺してしまうた。そしては川に投げこみてしまう」(野戦重砲兵第1連隊所属・久保野茂次の日記、23年9月3日付)
また、3日から4日にかけては東京・大島周辺で400人以上の中国人労働者が警察や在郷軍人によって残虐に殺害された。差別と低賃金のもとで共済会を結成し、団結して生き抜く中国人労働者もまた日帝の恐怖と憎しみの対象となり、虐殺の標的とされたのだ。
背景に侵略と植民地支配
しかし、デマに一定の「信憑(しんぴょう)性」を与えたのは、国家権力による扇動だけではなかった。この虐殺の本質をとらえるためには、1923年9月1日に至る歴史的背景をおさえる必要がある。
日帝は1894~95年の日清戦争で台湾を清から奪い、人民の激しい抵抗闘争を鎮圧する台湾征服戦争―大虐殺を経て初の植民地とした。続いて1910年には朝鮮の植民地化=「韓国併合」を強行し、朝鮮の人々から土地や資源に加えて文化や言語、名前も奪い、徹底した暴力支配を行った。しかし、朝鮮人民は屈することなく闘い抜いた。朝鮮への軍事攻撃をもって始まった日清戦争と一体で戦われた甲午農民戦争から日露戦争(04~05年)下、そして韓国併合を前後して抗日義兵闘争は朝鮮全域に広がり、中国東北部の間島(カンド)も抗日パルチザンの拠点となった。
日帝はこれらの民族解放闘争に立ち上がった朝鮮人民を「暴徒」とみなし、「討伐」にあたった。現在イスラエルが行っているジェノサイドと同様、帝国の「防衛」の名のもとに殺人を正当化し、大量虐殺や性暴力を繰り返したのだ。ロシア革命への干渉戦争としてのシベリア出兵(18~25年)のただ中で行った間島虐殺(20年)では約3千人の朝鮮人を虐殺した。
中でも、19年の3・1独立運動では学生を先頭に200万人以上が決起し、約1年にわたって「独立万歳」の叫びが朝鮮全土を覆った。約7500人もの人民を虐殺して運動を弾圧した日帝は朝鮮人民の闘いに激しい恐怖と憎悪を募らせ、「不逞鮮人」(植民地支配に抵抗する朝鮮人をさす蔑称)という語を急速に民衆の中へ広めていった。
関東大震災時の水野内相は3・1運動後の朝鮮総督府政務総監を、また警視総監・赤池濃は同時期の朝鮮総督府警務総監を務めた経験をもつ。そして当時、日本陸軍の全師団が朝鮮派兵=植民地戦争を経験していた。朝鮮で独立運動圧殺・朝鮮人大量虐殺に手を染めた元兵士=在郷軍人らが、震災後の自警団結成と虐殺の先頭に立ったのだ。
事実の隠ぺいと抹殺を図る日帝
この虐殺をめぐり、日帝は一度も調査を行うことなく事実の隠蔽(いんぺい)をもくろみ、謝罪も拒否し続けてきた。水野は後日の談話で「鮮人中には不穏の行動に出(い)でたものもあったのだから、自衛の意味において殺したもの......はやむを得ぬ事であった」と語り、震災後の対応を正当化した。現在でも、恥知らずな極右勢力が同様の主張を続けている。
しかし、日帝の敗戦を経て1960年代に入ると在日朝鮮人・中国人、地元住民らが目撃者らへの聞き取りなどを通じた歴史の掘り起こしを開始した。都内では73年に両国の都立横網町公園に朝鮮人犠牲者追悼碑が建てられ、在日の人々を中心に追悼式典が行われてきた。真相究明と記憶継承のための運動は世代を超えて続けられている。
ところが、2014年の集団的自衛権行使容認、15年の安保戦争法制定を経て日帝が再びの中国侵略戦争に突き進む中で、政府中枢と行政による歴史の否定・歪曲(わいきょく)が急速に進行していく。安倍政権下の15年以来、政府は朝鮮人虐殺について「政府内にその事実関係を把握することができる記録が見当たらない」という虚偽の答弁を繰り返すようになった。
そして東京都知事・小池百合子は就任翌年の17年以来、歴代都知事が行ってきた両国の式典への追悼文送付を拒否。一方で「朝鮮人虐殺はなかった」と主張する極右団体「日本女性の会 そよ風」が「集会」の名で卑劣な式典破壊を行うことを許してきた。これを機に全国の自治体で歴史否定・歪曲の動きが強まり、群馬県高崎市では24年、朝鮮人追悼碑を行政が破壊・撤去するに至ったのだ。
差別・排外主義と対決を
今回の参院選過程では、参政党の街宣現場で同党の支持者が抗議者に対し「15円50銭って言ってみな」などと挑発したことが明らかになった。朝鮮語話者には発音しにくい「15円50銭」とは、関東大震災時、朝鮮人を摘発して虐殺するために使われた言葉だ。「日本における排外主義の核心はその朝鮮観にある」(歴史学者・愼蒼宇氏)と指摘される通り、朝鮮人への差別は他のマイノリティーへの差別とは一線を画する。それは日帝の侵略と植民地支配の歴史、そして朝鮮人民の民族解放闘争への恐怖と不可分一体のものだ。
日本労働者階級にとって、朝鮮人への差別と闘うこと抜きに反戦闘争は一秒たりとも成り立たない。帝国主義戦争の侵略と植民地支配を許し、自ら朝鮮人・中国人虐殺に手を染めた痛苦の歴史を見据え、二度と繰り返させないための強烈な自覚と闘いが求められている。そのためにいま一度、関東大震災前夜の状況を振り返ってみたい。
自国政府打倒へ闘う党の建設を
1917年のロシア革命は新たな時代の到来を全世界に告げ知らせ、全世界に階級闘争・革命運動の高揚をもたらした。多くの朝鮮人が民族解放をかけ、革命運動に身を投じて闘った。
日本においても、18年に開始されたシベリア出兵を契機とする米価高騰を背景に米騒動が爆発し、内閣を打倒するに至った。労働運動の高揚がかちとられ、22年には日本共産党が非合法で結成されている。在日朝鮮人労働者たちは、日帝本国で闘う日本人労働者との連帯を求めていた。震災から4カ月前の23年5・1メーデー闘争には在日朝鮮人労働者が初めて参加し、権力の襲撃・弾圧と対決して闘い抜いた。
こうした中で、植民地・朝鮮の解放は日朝労働者階級の共同の課題となった。とりわけ、闘う朝鮮人民と連帯し、日帝の侵略を内乱に転化することこそが日本労働者階級人民の最大の任務となっていたのだ。こうして築かれつつあった連帯を破壊し両者を決定的に分断したものこそ、大震災時の朝鮮人虐殺だった。
日帝はその後、31年の柳条湖事件をもって始まる中国侵略戦争へと突進し、労働者階級はその先兵とされた。戒厳令下での朝鮮人・中国人虐殺、それを通した日本労働者階級の階級意識解体は、総力戦体制への決定的な転機となったのだ。
日本労働者階級に何よりも求められていたのは、植民地支配を絶対に許さず、自国帝国主義=日帝打倒、朝鮮―アジア解放に向けて闘うことだった。問われていたのは、その指導に責任をとりきる革命党の意識性だった。しかし当時の日本共産党は、23年6月の一斉検挙、そして関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺、これと一体で権力が労組活動家・社会主義者らを虐殺した亀戸事件・甘粕事件などの反動に屈し、24年に自ら解散を選んだ。
この敗北の歴史を乗り越える道は、すべてをかけて「闘う中国・アジア人民と連帯し、米日帝の中国侵略を内乱へ!」の闘いに打って出ることだ。差別と排外主義の元凶=日帝の打倒に向かって巨大な闘いを組織できる革命党を今こそつくり上げよう。9・1反戦デモを出発点に今秋反戦闘争の爆発をかちとろう。
〔佐々木舜〕
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| 関東大震災をめぐる近現代史関連年表 | |
| 1875年9月 | 江華島事件。日本が武力で朝鮮開国を迫る |
| 76年2月 | 日朝修好条規(不平等条約)締結 |
| 94年2月 | 甲午農民戦争始まる(~95年) |
| 7月 | 日清戦争始まる(~95年) |
| 95年10月 | 閔妃殺害事件(乙未事変) |
| 1909年7月 | 日本政府が「韓国併合」を閣議決定 |
| 10月 | 安重根、ハルビンで伊藤博文を射殺 |
| 10年5月 | 日本で「大逆事件」でっちあげ弾圧開始 |
| 8月 | 韓国併合、朝鮮総督府設置。土地調査事業始まる |
| 14年7月 | 第1次世界大戦始まる(~18年) |
| 17年11月 | ロシア10月革命 |
| 18年7月 | 米騒動 |
| 8月 | 「シベリア出兵」始まる(~25年) |
| 19年3月 | 3・1独立運動 |
| 20年10月 | 日本軍が間島で朝鮮人を虐殺(~12月) |
| 22年1月 | 極東勤労者大会始まる(~2月) |
| 23年9月1日 | 関東大震災発生。夜には墨田区旧四ツ木橋などで朝鮮人虐殺が始まる |
| 2日 | 東京市と隣接5郡に戒厳令施行(3、4日に対象地域拡大) |
| 3日 | 内務省警保局長が「朝鮮人が放火等している」と各地に電文。各地で「自警団」が大虐殺 |
| 5日 | 亀戸警察署内で軍が労働運動活動家ら10人を殺害(亀戸事件) |
| 16日 | 東京憲兵隊本部で大杉栄らを殺害(甘粕事件) |
| 25年4月 | 治安維持法公布 |
| 31年9月 | 柳条湖事件 |
| 37年7月 | 盧溝橋事件、日中戦争開始 |
| 12月 | 南京大虐殺 |
| 39年7月 | 「募集」形式で朝鮮人強制連行を開始 |
| 9月 | 第2次世界大戦始まる(~45年) |
| 40年2月 | 「創氏改名」(日本名への強制変更)実施 |
| 42年2月 | 官による朝鮮人労働者「あっせん」開始 |
| 44年9月 | 朝鮮人に対し国民徴用令による徴用開始 |
| 45年8月 | 日本がポツダム宣言を受諾=朝鮮解放 |
| 48年8月 | 大韓民国成立 |
| 9月 | 朝鮮民主主義人民共和国成立 |
| 65年6月 | 日韓条約締結 |
| 73年9月 | 墨田区横網町公園内に「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会」が追悼碑を建立 |
| 74年9月 | 横網町公園での朝鮮人犠牲者追悼式典始まる |
| 82年1月 | 出入国管理及び難民認定法制定 |
| 2000年4月 | 石原慎太郎都知事が外国人差別の「三国人」発言 |
| 13年2月 | 政府が朝鮮学校を高校無償化対象から排除 |
| 17年9月 | 小池百合子都知事が9・1朝鮮人犠牲者追悼式典への追悼文送付を中止。極右団体「そよ風」が式典妨害を開始 |
| 24年2月 | 群馬県が「群馬の森」の朝鮮人追悼碑を撤去 |