閣僚らの靖国参拝弾劾 侵略戦争と「戦死」の賛美許すな

週刊『前進』04頁(3410号03面02)(2025/08/25)


閣僚らの靖国参拝弾劾
 侵略戦争と「戦死」の賛美許すな


 昭和天皇ヒロヒトによるポツダム宣言受諾の意向がラジオで放送され(いわゆる「玉音放送」)、日本帝国主義の敗戦とそれに伴う第2次世界大戦の終結が確定した日からちょうど80年を迎えた8月15日、小泉進次郎農相、加藤勝信財務相の2閣僚と高市早苗前経済安保相、小林鷹之元経済安保相を始めとする国会議員ら52人が靖国神社を参拝した。石破は自民党総裁の名で玉串料を納めた。
 小泉は当日の閣議後の記者会見で「国家のために命を捧げた方に対する礼を忘れないことは重要」と語り、高市も参拝後に「たくさんの方が国策に殉じられた。尊崇の念をもって哀悼の誠を捧げた」とコメントした。帝国主義国家が引き起こした侵略戦争で国民が「国家に命を捧げ」「国策に殉じる」ことを、石破政権の閣僚あるいは国会議員の立場から公然と賛美しているのだ。断じて許すことはできない。

靖国神社とは何か

 靖国神社とは、戦争で亡くなった人を一般的に「追悼」するための施設では断じてなく、「天皇とその国家のために命を捧げた者」だけを選別して「英霊」「神」へと祭り上げる「顕彰」施設=イデオロギー装置にほかならない。「天皇のために死ぬこと」を徹底的に賛美することで、人間の生と死を天皇制国家の管理下に置き、残された者や次の世代の若者にも同じ死に方を強制しようとするところに、その目的がある。
 実際、靖国神社の前身は明治維新の過程で天皇の側に立って戦死した者を祭った東京招魂社(1869年建立)で、戊辰戦争の「官軍」側の戦死者などが祭神として合祀(ごうし)された(「朝敵」とされた会津藩などの死者はそこから排除されたばかりか、明治政府によって遺体の埋葬すら禁じられて野ざらしにされた)。これが1879年に明治天皇の意思で靖国神社と改称され、天皇を祭主として全国約10万の神社の頂点に置かれた。その後は陸海軍省が直接管理し、合祀者も軍が選定した(戦後は厚生省)。現在までに約246万人以上が合祀され、そのうち95%は1931年の中国東北部侵略戦争以後の戦死者で占められる。その中には日本軍に徴用された朝鮮半島出身者約2万人も含まれるが、遺族からの合祀取り消しを求める訴えを日本政府と靖国神社は踏みにじり続けている。
 現在、元海上自衛隊海将・大塚海夫が靖国神社の宮司となり、昨年には自衛隊幹部の組織的な集団参拝が発覚したが、今回の閣僚・議員らの参拝も含め、日帝権力中枢は「靖国の思想」を復活させようと必死になっている。日帝が中国侵略戦争という新たな戦争に突入していくためには、そこで不可避となる「自衛隊員の戦死」という事態に対し、これを天皇と国家の名で徹底的に美化し、称賛し、推奨するイデオロギーが不可欠だからである。だが、こうした策動はかつて日帝によって侵略されたアジア諸国の人民の怒りと闘いを巻き起こさずにはおかない。この怒りと闘いに応え、血債をかけて連帯し、中国侵略戦争阻止の反戦闘争を今こそ爆発させよう。
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