追悼
追悼
中核派の土台をつくった
吉羽同志の遺志継ぎ闘う

1960年安保闘争以来65年余、革共同の先頭で闘った吉羽忠同志が9月30日、亡くなった。85歳。共に闘ってきた同志50人が集まり12月15日、前進社で偲(しの)ぶ会を行った。
東京工業大学に入学した吉羽同志は、安保闘争後に全学連中央執行委員に。63年2月のマル学同中核派の結成宣言に名を連ねた「13人の中核派」の一人である。横須賀原潜闘争、日韓条約粉砕闘争などの実力闘争の先頭に立って闘った。66年全学連再建(いわゆる「三派全学連」)で主導的な役割を果たし、68年には1月の原子力空母エンタープライズ寄港阻止の佐世保闘争、10月の米軍タンク車輸送阻止10・21新宿騒乱闘争の総指揮をとった(両闘争の被告団長に)。「安保粉砕・日帝打倒」の旗を掲げ実力闘争で70年安保・沖縄闘争を切り開いた。
70年に革共同東京南部地区委員長、72年前進経営局長を務め、74年前進印刷局長として対カクマル戦争の中で「武装し自立した独自の印刷発行体制」建設に尽力、カクマルの武装襲撃をはねのけて「前進」復刊をかちとった。
下獄を経て革共同首都圏委員長に。89年都議会議員選挙で選対本部長として活躍し、長谷川英憲同志の当選をかちとった。91年「5月テーゼ」後、前進社本社事務局長となり、94年の前進社本社ビル建設の責任体制を担う。
2014年、狭心症で倒れ、闘病生活に入った。様々な病気を併発し、入退院を繰り返したが、体力の許す限り集会やデモに参加を続けた。前進社で行われる会議にも気力を振り絞って毎回出席した。60年代のデモ指揮と同様の気迫で戦闘精神を発揮した。重体の床の上でも9月の35全総をかちとった党の闘いに肉薄しようと「前進」を凝視していた。
偲ぶ会では、60年代から共に闘った同志を始め、多くの同志が吉羽同志の不屈の革命家としての生涯をたたえ、遺志を継いで闘い抜く決意を表明した。
秋月丈志書記長は、「われわれが目指してきた革命を実現する時が来ている。中核派の土台をつくった吉羽同志を引き継ぎ、若い同志とともに26年の決戦へ闘おう」と決意表明した。
国鉄決戦を貫いた松田同志
革命的共産主義者同盟労対部

11月19日、松田浩明同志が誤嚥(ごえん)性肺炎により亡くなった。2019年の杉並区議選過程で脳梗塞(こうそく)で倒れ、リハビリを行いながら仲間に支えられて闘争の現場に立ち続けてきた。享年71。最後は点滴だけで3週間も懸命に生き抜いたが、ついに帰らぬ人となった。
松田同志は、1973年に島根大学農学部入学。三里塚現地行動隊として78年横堀要塞(ようさい)決戦を23歳の時に闘い、逮捕・起訴された。「俺は横堀要塞決戦で太郎良(現反対同盟)と一緒に闘ったんだ。機動隊にもがれた指を引きちぎって投げつけてやったんだ!」と言うのが彼の自慢でもあった。
松田同志は87年まで学生戦線で法大決戦などを闘い、前進編集局を経て労対部に移籍した。
国鉄1047名解雇撤回闘争を命がけで闘い、2002年5・27国労臨大闘争での暴力行為等処罰法弾圧で不当逮捕された。
彼の署名集めはもはや伝説で、毎日のように上野駅で朝から晩まで署名集めに立った。駅の清掃や窓口業務の女性労働者たちと署名を通じて仲良くなり、幾人かと文通していたくらい愛されていた。脳梗塞で倒れた後も集会に行く時は必ず車椅子にポールをくくりつけ、1047名解雇撤回ののぼりを出さなければ気が済まなかった。国鉄闘争こそ階級的労働運動を甦(よみがえ)らせる力だという不動の信念をもち続けていた同志だった。彼のひつぎには1047名解雇撤回ののぼりとパンフレット、それに彼を愛してやまなかった義姉の送ってくれた手紙と写真が添えられた。
1月23日には国鉄解雇撤回裁判控訴審第2回公判が行われる。その場に彼の不屈の闘魂をもって行こう。松田同志、永久にあれ!