<再録>在日台湾人 元日本兵林歳徳さんに聞く

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週刊『前進』04頁(3427号04面03)(2025/12/22)


<再録>在日台湾人
元日本兵林歳徳さんに聞く

(写真 林歳徳さん 在日台僑元日本兵。1918年5月23日、台湾・嘉義県生まれ。37年10月、日本軍に強制徴用。38年1月、南京大虐殺を目撃し反戦逃亡。著書『私の抗日天命』(社会評論社)。2008年4月27日逝去、享年89)


〝天皇制日本帝国許さぬ〟日帝の台湾侵略史を学ぼう 近代日本は中国人の血肉で造成
 日本軍軍属として強制徴用され、南京大虐殺を目撃した台湾省出身の在日中国人、故・林歳徳さんのインタビュー(2002年5月6日付本紙第2052号、抜粋)を再録します。林さんは08年新年号に「闘う日本人民(星火団)主導で新日本人民共和国が誕生することを共に闘う」とメッセージを寄せている。この生前最後となったメッセージに応え、血債をかけて「連帯し、侵略を内乱へ」を闘い、中国侵略戦争を阻止しよう。(編集局)
 皆さんが日本帝国主義の台湾侵略史を学ぼうという熱意に敬意を表する。同時に、ぜひ知ってほしい重要な事実がある。それは皇族として台湾侵略の先頭に立った北白川宮能久親王はどこでどのように死んだのかという問題だ。
 日清講和条約(1895年4月17日締結)から約1カ月後、日本は台湾接収のための軍隊を台湾に送った。その主力部隊であった北白川宮能久親王率いる近衛師団が台湾北部の澳底に上陸したのは1895年5月29日。台湾人は日清の台湾売却契約を知らされず、日帝軍の台湾上陸は青天の霹靂(へきれき)だった。
 この時、私の父、林水盛は嘉義地区抗日ゲリラ隊長として先頭に立った。父は1876年生まれで武芸と医学を学んでいた。

父は抗日ゲリラ隊長

 中部へと侵攻する北白川宮軍を、台湾人義勇兵は彰化城で迎え撃ち、北白川宮軍の半数を撃滅する戦果をあげたが、8月末に彰化城陥落。1万人近い義勇兵が立てこもった嘉義城では、二昼夜不眠不休で戦ったが10月9日に陥落した。「嘉義城からの敗走は悔しかった」と父は話していた。
 北から台湾首都の台南府城へ進む北白川宮軍に呼応して、乃木希典陸軍大将率いる第2師団が枋寮に上陸し、北上していた。その途上、北白川宮は八掌渓の大要衝である義竹で戦死した。義竹は川幅3㌔もある八掌渓の北岸の渡河口で、南岸は塩水港。辺りはサトウキビ畑が広がり、河岸の林投木(アダン)が行く手を阻む要衝。ここに10月12日、北白川宮軍は侵入した。サトウキビ畑に伏兵したゲリラ軍に追い詰められ、北白川宮は馬から下りて日本刀で応戦したが、ゲリラ軍は、竹の枝を切るのに使う6㍍の柄が付いた割刀(クワトゥ)で北白川宮を切り殺した。こうして北白川宮は台湾人義勇兵によって絶命したのである。
 北白川宮の死を公学校では「北白川宮能久親王は、嘉義でマラリヤにかかり、タンカで担いで運び、台南で亡くなった」と教えられた。教科書にそう書いてあった。私が学校から帰ってそのことを父に話すと、父は「それはウソだ」と真実を詳しく教えてくれた。
 伏見宮貞愛親王が率いる第2師団の混成第4旅団は、北白川宮を救うため彭湖島を出撃、10月10日に八掌渓の河口である布袋港から上陸した。しかし、すでに北白川宮は戦死、その憤怒で伏見宮軍は徹底的な掃討戦に出た。義竹を中心に東西南北10㌔四方を焼け野原にした。焼き尽くし、殺し尽くす残虐な三光作戦がこの時すでに行われたのである。

サトウキビ畑奪われ

 私が生まれたのは1918年5月23日、本籍は「大日本帝国台湾総督府台南州東石郡鹿草庄頂潭村26番地」、現在の嘉義県鹿草郷碧潭村です。
 私の家は旧家で、父祖の代から製糖業をしていたが、1915年ころに嘉義の製糖工場は明治製糖に、碧潭の製糖工場は塩水港製糖に吸収されてしまった。
 約10㌶のサトウキビ畑が奪い取られたのは私が5、6歳のころだった。ある日、父が私を連れて見回りに行くと、畑の四角に「この畑は三木三郎の所有地である。耕作したい者は、下記の三木事務所に出頭して賃貸契約を結ばなければ、立ち入りを禁ずる」と書かれた看板が立てられていた。父は怒って看板を引き抜いて焼き捨てた。
 2日後、警察は父を逮捕し、畑の耕作権放棄を要求した。強く拒否する父に警察は拷問を加えた。両手を後ろに縛り上げてひざまずかせ、ひざの裏に六角棒を差し込み、棒の両側に警官が乗ってくるくる回転させた。その拷問を母と私たち兄弟に見せつけ、父が気絶すると、頭から水をかけて繰り返した。母は大声で泣き崩れ、私たち兄弟も泣いた。警官は笑っていた。
 母が気絶した父の指をつかんで、警官が突き出した「耕作権放棄書」に父の母印を押した。

善悪見据えてほしい

 村の漢書房で3年間漢文を習い、9歳の時、下潭公学校に入学した。台湾総督府の教育は、ただ日本人の命令を聞き分けるための日本語しか教えないというものだった。台湾人は公学校、日本人は小学校、中学校という差別教育体系が厳然とあった。
 33年、15歳の時に台南州立嘉義中学校に進んだ。このころには台湾人も中学校に入学できたが、1学年75人前後でうち台湾人は5人だけ、教員は全部日本人、台湾語は禁止だった。結局、夏には台湾語をしゃべったことで退学になった。
 私は1937年10月、19歳の時に軍夫として強制徴用された。私はその後、南京大虐殺を目撃、反戦脱走して日本にやってきた。戦後も2・28事件で帰国できず、今まで日本で生きてきた。やはり戦場に駆り出された兄・月徳はマニラで戦死した。これらはすべて天皇制日本帝国に起因している。
 私が若い人たちに言いたいのは、今こそ自立して善悪をはっきりと見据えてほしいということだ。日本は今も天皇制日本帝国である。過去を反省していない、誰も責任を取っていない。対中国の血債の額は賠償現金3億5575万両、その上に膨大な資源を強奪した。すなわち、近代日本帝国は、中国人の血肉で造成されたものだ。
 有事立法が出てきたが、日本政府は非常事態が来るのを待っているんだ。危機をチャンスとして、国民を総動員しようとしている。協力しなければ非国民だという、戦前と同じだ。婦人民主クラブ全国協が沖縄から北海道まで反戦キャラバンをやった。あれは非常に有効な闘いだ。全国に散らばっているほそぼその火をつなげてぱっと火を着ける。その導火線が必要だ。私は闘う女性たち、闘う日本人とともに闘う。

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