侵略と戦争の「昭和100年」④沖縄 5・15沖縄闘争へ 沖縄を二度と戦場にするな
週刊『前進』04頁(3444号04面01)(2026/04/27)
侵略と戦争の「昭和100年」④沖縄
5・15沖縄闘争へ
沖縄を二度と戦場にするな

(写真 沖縄戦での米軍による火炎放射)

(写真 全沖縄軍労働組合【全軍労】2万人が1969年6月5日、賃上げや解雇撤回を要求して24時間スト。各ゲートで銃剣を構える米兵と対決した)
昭和天皇ヒロヒトと日本帝国主義はアジア・太平洋戦争で残虐な侵略戦争を行い、アジア人民2千万人を虐殺した。その帰結が沖縄戦であり、広島・長崎への原爆投下だ。戦争末期、ヒロヒトらは沖縄を本土防衛のための「捨て石」と位置づけ、米軍との凄惨(せいさん)な地上戦に住民を根こそぎ動員し、県民の4人に1人(50万人中12万人、うち住民は9万人)を死に至らしめた。戦後は天皇の延命のために1952年4月28日発効のサンフランシスコ講和条約で米軍政下に置き、土地を奪い、在日米軍基地の7割を沖縄に集中させた。沖縄は、ベトナムや中東などアメリカ帝国主義が世界中で行う侵略戦争の出撃基地にされ、米軍機の事故や米兵による女性暴行が繰り返されてきた。今、米日帝は沖縄をイラン侵略戦争の出撃拠点とし、中国侵略戦争の最前線に立たせ、沖縄戦を繰り返そうとしている。絶対に許すな! 沖縄県民はこの「基地の島」の現実と不屈に闘っている。5・15沖縄闘争に決起し、日米安保粉砕の巨大な闘いを巻き起こそう。
天皇=本土防衛の「捨て石」 住民を根こそぎ戦争動員
凄惨な地上戦で4人に1人が犠牲に
米軍すら沖縄戦を「ありったけの地獄を集めた」戦場と呼んだ。歴史的に見ても、これほど住民を巻き込んだ地上戦は類例がない。このおびただしい惨禍の一切の元凶は天皇(及び天皇制イデオロギー)だ。戦争末期の1945年、日帝は敗北が明白になる中で「国体(天皇制と資本制国家)護持」のための時間稼ぎの「捨て石」とした沖縄戦で、全住民を動員した「玉砕」戦法を採った。前年に本土から乗り込んだ第32軍は学校、公民館、民家を接収し、司令官・牛島満は「現地物資を活用し一木一草といえどもこれを戦力化すべし」との訓示で、防衛召集された2万2千人だけでなく沖縄県民全員を戦争に動員した。鉄血勤皇隊やひめゆり学徒隊など学生・青年・女性も駆り出され、部隊が駐屯した百数十カ所には軍の「慰安所」が設置された。
この沖縄の「捨て石」作戦こそ、天皇制の延命のために行われたものだ。近衛文麿元首相は「このままでは敗戦は必至。それよりも戦後の共産主義革命に備えるべき」だとしてヒロヒトに対して戦争の早期終結を上奏した(45年2月)。しかしヒロヒトは「もう一度戦果を挙げてからでないと厳しい」とはね除けた。その結果が沖縄戦である。
米軍は54万人を動員して3月24日から激しい艦砲射撃を開始し、4月1日に沖縄本島に上陸。「鉄の暴風」と呼ばれるすさまじい攻撃を行った。沖縄戦で米軍が撃ち込んだ砲弾・爆弾の総量は20万㌧以上で、艦砲弾約60万発、地上からの砲撃170万発である。国土面積0・6%の沖縄に、本土の空襲で投下した爆弾約16万㌧の1・2倍に及ぶ桁違いの爆弾が投下されたのだ。
日本軍は次第に敗退して南部に追い詰められたが、あくまで時間稼ぎのために戦闘を続けた。牛島らが6月23日に切腹して組織的抵抗は終結したが、住民は降伏を許されず、「最後まで敢闘して悠久の大義に生くべし」と「玉砕」を命じられた。戦闘は敗戦後の9月まで続いた。
宮古島など先島諸島では地上戦こそなかったものの、飢餓や軍による有病地帯への避難強要が原因でマラリアなどに罹(かか)り、8千人近くの住民が亡くなった。
近年、陸上自衛隊第15旅団が公式サイトに牛島の辞世の句を掲載し、沖縄県民の怒りの的となっている。そもそも牛島は南京大虐殺(37年12月)の指揮をした人物でもある。その牛島が沖縄県民に「最後まで戦え」と命令し、さらに「生きて虜囚の辱めを受けず」(捕虜になる前に死ねということ)の方針のもとで住民に「自決用」の手りゅう弾まで渡し、多くの「集団自決」を行わせたことを絶対に許してはならない。
住民丸ごとの動員や「集団自決」まで可能にしたのは、教育勅語や軍人勅諭をはじめとした徹底した皇民化教育だ。とりわけ琉球王国を併合してできた沖縄県は、天皇のために命を尽くすという意識を徹底的に植え付けられた。まさに帝国主義的民族・植民地政策そのものだ。
住民をスパイ視し「集団自決」を強要
戦場でも避難した壕(ごう=ガマ、自然の洞窟)の中でも、住民の命より軍隊が優先された。至るところで「集団自決」が強制され、日本軍による住民虐殺も多数に上った。米軍が本島より前の3月27日に上陸した渡嘉敷島では、日本軍によって数百人が「集団自決」に追い込まれた。また読谷村にあるチビチリガマでは避難していた約140人のうち83人が「集団自決」を強制された。米軍は投降を呼びかけたものの、日本軍が中国で捕虜や住民を虐殺していたことを知る住民が、「米兵に捕まれば(日本軍がやったように)ひどいことをされて殺される」と思い込まされ、「自決」を強いられたのだ。またガマから日本軍に追い出された住民も多数おり、降り注ぐ砲弾や火炎放射で多くの住民が犠牲になった。
壕での生活も凄惨を極めた。元ひめゆり学徒隊の宮良ルリさんは本紙(2002年7月15日付)のインタビューで「4日ほど壕の中で過ごしました。見ると地面が真っ白。真っ白い花が咲いたと思ったら、それは全部ウジでした。死臭で臭くて耐えられませんでした。壕を脱出することになり、足をケガした安谷屋(あだにや)さんと組んで板はしごを登りました。壕周辺は美しい琉球松林だったのに、焼き尽くされていた。匍匐(ほふく)前進でしたが、腐った死体にさわってしまうと手がぶくっと沈むんです」と語った。
日本軍による家畜の略奪に抗議したり、沖縄の方言をしゃべったりしただけで「スパイ」とされて殺された住民もいた。「天皇のために自ら命を捧げようとしない者、天皇の軍隊の命令に従わない者は天皇と国家への裏切者、すなわちスパイと見なされて殺されても当然と考えられ、そして実際に殺された」(林博史『沖縄戦』)のだ。
このように沖縄県民の犠牲は米軍だけではなく、天皇と日本軍によってもたらされたものである。日本軍は徹底して住民を敵視し、「スパイ」とでっち上げ、アジア人民に対して行ったと同様に残虐の限りを尽くした。「軍隊は住民を守らない」とは、おびただしい犠牲の上に書かれた血の教訓にほかならない。
「沖縄戦を繰り返すな」——米日帝の中国侵略戦争―世界戦争が開始される中で、本土人民はこの沖縄県民の血叫びに応え、戦争の元凶=帝国主義と天皇制打倒へ総決起する時だ。
(屋敷博一)
戦後、天皇が沖縄売り渡し 米帝の侵略と支配の拠点に
1945年に敗戦した日本帝国主義は、憲法9条をはじめとする戦後憲法体制の確立など「妥協」も迫られたが、日米安保同盟を基軸に延命した。その日米安保の最大実体が沖縄だ。米軍が制圧する「太平洋の要石」
アメリカ帝国主義は戦後のアジア―世界支配を見すえ、沖縄戦が始まってすぐに「米国海軍軍政布告第1号」で米軍政府の樹立を宣言。46年1月には連合国軍総司令部(GHQ)が沖縄をGHQ統治下の本土とも分離し、直接に米軍支配下に置くこととした。沖縄の半径1千㌔メートル圏内には中国や朝鮮半島、フィリピン、そして日本の主要都市が入り、地理的に極めて重要な場所だったからだ。昭和天皇ヒロヒトはこの米軍の動向に飛びつき、47年9月に側近を通じて「米国による長期の軍事占領を望む」と伝えた。天皇制存続のために沖縄を「捨て石」として戦火にたたき込んだ日帝は、同じ理由で今度は沖縄を売り渡したのである。
そして49年中国革命、50年朝鮮戦争などアジア全域での戦後革命、民族解放・革命戦争の爆発の中で49年5月、米帝は沖縄の長期保持を決定。GHQ最高司令官マッカーサーは「日本は共産主義を阻止する防波堤」と声明し、米議会では沖縄基地建設予算に5千万㌦を計上して軍用地の接収と基地建設を加速していった。52年4月28日には日米安保条約とサンフランシスコ講和条約が発効——日米同盟とセットの日本の主権回復と、憲法すら適用されない沖縄の分離・軍事支配が確定したのである。
こうして沖縄は、米帝が反共分割軍事基地国家とした韓国や台湾、さらに太平洋・インド洋にまたがるオーストラリアやニュージーランド、フィリピンなどと結んだ軍事同盟の中心として、「太平洋の要石(キーストーン)」と呼ばれるに至る。そして日帝自身は、沖縄を米帝に差し出すとともに本土の各地にも在日米軍基地を置き、50年朝鮮戦争を契機に米軍の出撃・兵たん拠点となった。このことにも示されるように、日帝は、アジアの民族解放闘争圧殺の大拠点として米帝の世界支配を支えることでアジア唯一の帝国主義として延命したのである。解体された三菱や三井などの財閥も再編・復活し、旧大日本帝国軍人を中心として自衛隊が組織されていった。
米軍政と対決し復帰闘争が爆発
沖縄では「銃剣とブルドーザー」による土地収奪と米軍基地建設が本格化し、米兵による襲撃や家屋などへの放火、抵抗した人々への苛烈(かれつ)な弾圧が繰り広げられた。さらに、この過程で1300発もの核兵器が持ち込まれた。しかし、このような米軍支配についに沖縄人民の怒りが爆発し、「島ぐるみ闘争」へと発展する。さらに55年由美子ちゃん事件(米兵による女児へのレイプ殺人)など米兵の凶悪犯罪の常態化、59年宮森小学校への米軍機墜落事故(小学生11人を含む18人が死亡、210人が重軽傷)など数々の事故、基地からの毒物流出の中で、60年に沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成され、労働運動の高揚と一体で闘争は爆発的に展開していったのだ。
この中で65年、米帝は本格的にベトナム侵略戦争に突入し、沖縄はその大拠点とされた。この過程で沖縄で編成された特別上陸部隊が現在、イラン侵略戦争に投入されている第31海兵遠征部隊(31MEU)の起源だ。65年には約3万5千人だった在日米軍は、72年には6万5千人にまで膨らみ、その多くは沖縄に新編された海兵隊=上陸・侵攻作戦を主な任務とする「殴り込み部隊」だった。こうして侵略戦争の拠点となる中で、米軍とその基地による被害は質・量ともに激しさを増していった。
だが、沖縄人民の基地撤去を求める怒りと闘いは、ベトナム反戦闘争とも一体となって爆発した。65年8月、当時の首相・佐藤栄作の来沖に抗議する県民大会を復帰協が呼びかけ、5万人が結集した。さらに68年11月、嘉手納基地でB52が墜落・炎上する事故が発生、これに抗議してB52撤去を求める全島ゼネラルストライキの決行が69年2月4日に呼びかけられた。恐怖した日帝が琉球政府主席・屋良朝苗(やらちょうびょう)を脅し、屋良が中止要請を出したことでゼネストは中止に追い込まれるが、この「挫折」をもきっかけに沖縄闘争はさらに飛躍していった。
ペテン的「返還」に対しゼネスト
革共同は沖縄人民の闘いに学び、全力で応えて「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」を掲げて70年安保・沖縄闘争を闘った。69年4・28沖縄デー闘争は、前夜に本多延嘉書記長(当時)が破壊活動防止法の扇動罪で不当逮捕されたが、これをうち破って総勢15万人が結集して戦闘的に闘われた。さらに8月、本土から沖縄に乗り込んだ3人の学生が中核旗を翻して嘉手納基地に突入。不可侵と考えられた米軍基地に突入した闘争は衝撃を与え、沖縄現地の戦闘的労働者・学生との結合が始まった。10月には沖縄県反戦青年委員会が発足していく中で、6月に全沖縄軍労働組合(全軍労)が銃剣を突きつける米軍と対峙して24時間ストを貫徹するなど、闘争は既成指導部をのりこえて発展していったのである。
こうして高揚する沖縄人民の怒りと闘いの激しさを抑え込もうと69年11月、米日帝は共同声明で沖縄の「返還」を発表する。その内容は表向き「核抜き・本土並み」を掲げていたが、「ベトナムでの米国の努力に影響を及ぼすことなく」としていたように、実際には「基地の島」としての沖縄の固定化=日米安保の維持こそ核心だった。しかも米軍の判断で沖縄に核兵器を持ち込める密約まで結ばれていたのだ。「基地のない沖縄」を求めて復帰闘争に立ち上がった沖縄人民の願いを踏みにじるペテン的「返還」だったのである。
このような中で70年12月、米軍支配に対する積年の怒りが「コザ暴動」として爆発した。追い詰められた米軍は、基地労働者3千人の大量解雇を発表し、闘いの中心に立つ全軍労に激しい攻撃をかけた。この攻防の中で、全軍労の闘いをけん引した牧港支部青年部(牧青、70年2月結成)は「死すべきは基地だ。労働者は死んではならない」と訴え、「解雇撤回・基地撤去」のスローガンを掲げた。それは「労働者が生きるために解雇は撤回すべき、人間として生きるために基地はいらない」という思いが込められた、革命を求める叫びだった。
牧青を先頭とする全軍労反戦派は闘いをけん引し、ついに全軍労は71年5月の臨時大会で「一切の軍事基地撤去」のスローガンを採択。基地労働者が闘いの先頭に立ち、同年5月19日と11月10日に「沖縄返還協定」粉砕の全島ゼネストが打ち抜かれた。また本土においても、全島ゼネストと連帯して11・14渋谷暴動闘争が爆発。本土―沖縄が一体となった革命的反乱がかちとられた。渋谷闘争の先頭に立った星野文昭さん、大坂正明さんらに対する激しい弾圧は、この闘争への日帝の恐怖を示している。
しかし沖縄人民の闘争の炎は、ペテン的「返還」を「前進」と評価する日本共産党など体制内指導部による裏切りと、日帝・米軍による全軍労つぶしの中で抑え込まれ、72年5月15日の「沖縄返還協定」発効をもってペテン的「復帰」は強行され、「5・15体制」が始まった。だが95年の少女暴行事件に対する10万人決起は、「復帰」後も変わらない現実への沖縄人民の怒りを示した。辺野古新基地建設反対の四半世紀を超える不屈の闘いは、この歴史の上にある。
沖縄人民と連帯し5・15闘争へ
「復帰」後、在沖米軍基地は減らないまま、日本の総面積の0・6%しかない沖縄県に在日米軍専用施設の70・3%が集中している。さらには、米帝が対中国のために2010年頃から「太平洋シフト」を構えて以来、中国侵略戦争に延命をかける日帝もまた沖縄―南西諸島の軍事要塞(ようさい)化を急ピッチで進め、宮古島や石垣島を中心に基地による矛盾は激化し続けている。現在、イラン侵略戦争の米軍の最大拠点となっている沖縄は、今や「太平洋の要石」どころではなく、「世界戦争の要石」とされているのだ。何より中国侵略戦争―世界戦争において、沖縄―南西諸島は米海兵隊の中国侵略作戦「遠征前進基地作戦(EABO)」の場とされ、まさしく「再びの沖縄戦」が強制されようとしている。また、「5・15体制」は日帝にとって自衛隊を沖縄に派兵する決定的意義をもった。「復帰」した沖縄に駐屯した陸上自衛隊第1混成群(現第15旅団)の最初の隊長であった桑江良逢は、「沖縄出身」を売りにした生粋の大日本帝国軍人だった。桑江が沖縄戦の司令官であった牛島満による天皇賛美の「辞世の句」を訓示として残し、第15旅団がその句を今も公式サイトに掲載していることにも示されるように、まさしく「皇軍」の復活をかけて沖縄に駐屯したのが第15旅団なのだ。第15旅団は26年度中に4千人規模へ増員されて師団化される予定で、中国侵略戦争において今度は米軍とともに「再びの沖縄戦」を遂行する主力となろうとしているのである。
こんなことを絶対に許してはならない。かつてスターリン主義と社会民主主義の指導のもと、差別・排外主義に屈して中国―アジア侵略戦争で虐殺に手を染め、沖縄を「捨て石」とすることを許した日本の人民こそ「沖縄を再び戦場にさせない!」と強く叫び、沖縄人民と固く連帯して闘い抜こう。イラン侵略においても中国侵略においても、最大の出撃拠点は沖縄―日本全土であり、3度目の世界戦争を止める最大の力を持っているのは日本労働者階級だ。5・15沖縄闘争を突破口に安保粉砕・日帝打倒へ進もう!
(塚原葉)