被爆者・被爆2世の決意わがものに
被爆者・被爆2世の決意わがものに
アジア人民への血債にかけ高市政権倒す
広島の被爆2世/8・6ヒロシマ大行動共同代表 中島健さん

中国侵略戦争―第3次世界大戦(核戦争)に断固として対決する!
私は、被爆した女性を母親に持つ被爆2世。しかし、私は彼女から被爆の悲惨な話(いわゆる被爆の実相なるもの)を聞かされたことは一度もない。聞かされたことはただ一つ。徴用されていた三菱の工場で、強制連行されていた朝鮮人労働者がこん棒でたたかれながら働かされていたという事実だけだった。彼女はその時発せられた「アイゴー」というハングルを「可哀想な声だった」と記憶していた。被爆直前まで被爆者(広島の労働者人民)は、このように朝鮮人民を始めアジアの労働者人民に対する支配者であり、抑圧者だった。少なからず己の罪深さを感じながらも、自らをそれと闘う解放者へと転じる契機を持つことができなかった。
侵略の歴史見すえ実力の闘いに立つ
日本の天皇制帝国主義は、明治維新以来アジアにおける唯一の帝国主義として自己を形成してきた。琉球処分、台湾出兵、日清戦争、日露戦争を通して東アジアに膨大な権益を得て、さらに「満州国」建設で中国全土の支配を策し、中国人民の頑強な民族的抵抗を「三光(殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くす)作戦」という非道な民族絶滅弾圧で粉砕しようとまでした。中国共産党に指導された民族的抵抗は、天皇制国家を「南進」に追い込み、東アジア支配をめぐる日米戦争に発展した。支配者階級は「聖戦」と銘打って自らが始めた侵略戦争=世界戦争を自ら終息させることができなかった。
その最大の焦点が「国体護持」であった。世界の労働者人民が切望する「天皇を戦犯として処刑せよ!」の声に震えあがったのはひとりヒロヒトのみならず、天皇の権威なるものに依拠し、侵略戦争をやり続けた支配者階級そのものだった。日本帝国主義は、日米交渉で執拗(しつよう)に天皇制の存続を求め、無条件降伏に応じなかった。それを突いたのがアメリカ帝国主義であった。一つは天皇制存続を条件に、戦後の日本支配・改造への全面的な協力を約束させた。また、無条件降伏を拒否する日本帝国主義の延命策動を「原子爆弾開発」の時間的猶予として利用した。そして、原爆実験の成功=「軍都・廣島(ひろしま)」に対する核攻撃を敢行した。日本帝国主義は、「生き残りのチャンス」到来とばかりに全軍の反乱を制圧して天皇軍(神軍)の武装解除を無抵抗で行わせ、マッカーサー将軍の日本占領を迎え入れた。
被爆したヒロシマでは直ちにアメリカ帝国主義の核攻撃に批判の声を上げることすらできなかった。「アメリカ軍は解放軍」と宣伝されたからだ。日本帝国主義による原爆攻撃受容(「平和」の核)を前提にして、被爆地・広島でも原爆攻撃を「平和をつくり出した」との賛美が始まった。被爆の翌年の新聞記事には「けふぞ巡り来ぬ平和閃光(せんこう)」「天降る平和の序曲」と大見出しが付けられた。平和を願って核兵器の犠牲になることを厭(いと)わなかった市民として被爆者は描き出される。「軍都・廣島」は封印され、侵略者であった廣島の労働者の真実は隠蔽(いんぺい)された。広島市が行う官製式典において「被爆者の尊い犠牲において日本の平和と発展がある」との常套(じょうとう)句が繰り返される。これが典型的に現れたのが、1950年の朝鮮戦争の最中に占領軍が発した「8月6日は反省と祈りの日」だった。だが被爆者は在日朝鮮人と連帯し、占領軍目的違反の勅令で4人逮捕という弾圧を乗り越えて戒厳令を突き破る集会とデモを敢行した。被爆者は国家と非和解であることを宣言したのだ。
被爆者の英霊化と再度の侵略許さず
我々は1970年、日本帝国主義による民族差別・部落差別激化との闘いの高揚に励まされ、被爆者青年同盟を結成した。冒頭に、私の母親は原爆被害について語らなかったと書いたが、現実には頻繁に原因不明で倒れ、疲れると体中に紫斑が浮き出た。そういう状態の親を私たち被爆2世は見ながら育ってきた。
であればこそ、ベトナム戦争参戦国と化し、全土をベトナム人民殺戮(さつりく)の基地として米帝に差し出すことを許せなかった。ベトナムでヒロシマを繰り返させるな! そのヒロシマに対して佐藤栄作が、戦後初めて首相として被爆者に被爆を強制した歴史を一切謝罪もせず、シャーシャーと「日本の戦後発展は被爆者のお陰」と持ち上げ、英霊化し、日本の侵略国家化に抱きこもうとした。71年8月6日、被爆者は積年の恨みを爆発させ、佐藤を平和公園からたたき出した。
アメリカ帝国主義の戦後築き上げた世界支配力が朽ち果て、トランプは新たな世界戦争によって支配の再編を狙っている。それが、激しく進行する中国侵略の根拠だ。戦争する帝国主義世界を転覆させよ! 帝国主義の攻撃に一国社会主義で延命を図る反革命=スターリン主義打倒を今度こそやり抜こう。アメリカ帝国主義と一体化して中国侵略に突進する高市政権打倒は核戦争阻止の絶対的任務であると同時に、東アジア革命勝利の労働者の血の通った団結をつくり出す。血債の思想を甦(よみがえ)らせ闘う覚悟だ。
地球を滅ぼす核戦争絶対に止めなければ
長崎の被爆者/婦人民主クラブ全国協議会・福岡支部 土井玞美子さん

私は1939年生まれ、今年87歳になりました。残り少なくなった原爆被爆者の一人です。よくぞこれまで生きてこられたものだと自分でも感心しています。
私は、長崎生まれの長崎育ち。結婚して福岡に転居し、畑に囲まれた小高い丘の上に住んで51年になります。これから8月9日、長崎原爆投下の日に私が体験したことを書きます。
8月9日の体験は鮮明に覚えている
午前11時2分、私は母と1歳になる妹と国鉄「長与」駅に停車した汽車の中にいました。戦死した親戚の法事からの帰り道でした。なかなか動かない汽車の椅子に座っていると「ピカッ」とものすごい光を背中から受けました。ガラスが粉々に割れて体中に降り注ぎました。両脇に座っていた方が私の体の上に覆いかぶさり、かばってくれていました。おかげで私は怪我(けが)もなく無事でした。
列車には兵隊さんが乗っておられ「今のは新型爆弾だ!」「みんな隠れろ! 私は広島でも同じ光に当たった!」と言われたので、皆防空壕(ごう)に逃げました。京都の娘さんに会えず帰る途中だったおばあさんは汽車の下に隠れましたが、車輪がガタンと外れ、その下敷きになって亡くなられました。一面血の海となりました。
しばらくすると、線路伝いに体中真っ黒で髪はチリヂリ、服はボロボロの人たちがゾロゾロ歩いてきました。顔中ガラスの破片が刺さっている人もありました。皆、口々に「水、水をください」と言いました。消防団の人が「どうせ助からんのやけん、飲ませろ」と言われ、母も田んぼの横を流れる水をくんで飲ませました。その中にいた医学生だという人は腹から腸がはみ出ており左右を抱えられながら「これから郷里福岡に帰るんだ」と言ってヨロヨロ歩いて行きました。皆「あれは助からんばい」と言っていました。
私は6歳でしたが、8月9日のことは今でもはっきりと覚えています。
戦争が終わり翌年には小学校に入学しましたが、被爆の影響で体を動かすことができず、よく熱を出していました。夏は特にひどくて家でゴロゴロ寝ていましたが、通知表には「栄養失調」とだけ書かれてありました。
天皇制国家の侵略が原爆投下の原因
なぜ広島と長崎に原爆が投下されたのか? 天皇制国家として形成された日本帝国主義は、日清・日露戦争をとおして台湾・朝鮮を植民地化し、「大元帥」昭和天皇ヒロヒトの名のもとに中国―アジアへの全面的な侵略戦争に手を染めました。その中で、アジア人民2千万人の命を奪った。侵略戦争の行きついた先が沖縄戦であり、広島・長崎への原爆投下だったのです。そして、アメリカ帝国主義が「原爆は理想的な兵器」と評価したように、史上初の原爆投下は、米帝がソ連をはじめ全世界に絶大な軍事力を誇示することで、戦後世界体制における優位性の確保を狙ったものでもありました。帝国主義こそ侵略戦争と原爆投下をもたらした原因に他なりません。
戦後も開発が進んだ原爆は今、広島・長崎に投下されたものより1千倍とも3千倍とも言われる威力になっています。そんな核兵器が世界には1万発以上もあります。日米が始めようとしている中国への戦争は核戦争になります。広島・長崎より威力の強い原子爆弾が一つでも投下されたら日本は全滅です。緑豊かな地球そのものも全滅です。絶対に止めなければならないと強く強く思います。
戦争を知らない世代が増えました。戦後は食べる物がなく、家畜の餌を食べました。飼い犬も食べられました。着るものも服もありませんでした。戦争はあってはならない。悲惨です。戦争を止めるため、8月6日ヒロシマ、8月9日ナガサキの行動に参加します。皆さんも私と一緒に声を上げ行動してください。