被爆者解放・日帝打倒へ 反戦・反核・反侵略貫き

週刊『前進』04頁(3457号03面02)(2026/07/27)


被爆者解放・日帝打倒へ
 反戦・反核・反侵略貫き


 今こそ被爆者解放闘争の原点に立ち返り、中国侵略戦争=核戦争阻止の8・6広島反戦反核闘争に総決起しよう。
 「全被爆者よ! 立ち上がって『反戦被爆者の会』に結集しよう。地下に眠る何十万という死者の意志をうけつぎ、人類の未来に向かって、反戦・反核、反侵略の旗のもとに結集せよ……帝国主義侵略戦争に対して朝鮮人被爆者をはじめとする朝鮮・アジア人民と連帯し、最後の血の一滴まで戦う。核兵器廃絶と反戦平和を希求し、戦争と核兵器の根源を打ち倒す、不退転の決意をもって行動する」(1977年、反戦被爆者の会結成宣言より)
 この被爆者の怒りと決意をわがものとして闘う時だ。反戦被爆者の会の決起を生み出したのは70年安保・沖縄闘争であり、70年被爆者青年同盟結成と71年佐藤来広阻止闘争であった。被青同の渾身(こんしん)の闘いは、50年朝鮮戦争下で示された被爆者の根底的怒りを再び引き出した。

朝鮮人被爆者先頭に

 日本帝国主義の敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)によるプレスコード(報道統制)下に置かれた被爆地では、被爆者の存在さえ社会に知らされることなく、封殺されていた。「原爆放射能のために苦しんでいる者は皆無」(45年9月、米軍)の発表とともに、日本政府は救護施設をすべて閉鎖した。このため被爆直後から数年のあいだに10万人以上が死亡した。
 さらに46年ごろから、マンハッタン計画に参加した米軍人や研究者を中心に(旧日本軍の原爆研究者も協力している)、原爆障害調査委員会(ABCC)による原子爆弾の人体に対する影響の調査が開始されている。彼らの調査の最重点は核戦争をかちぬく条件を探ることにあった。
 だが被爆者は命がけで声を上げ始めた。50年8月6日、帝国主義による朝鮮侵略戦争突入下で、在日朝鮮人被爆者を先頭に「朝鮮戦争反対」を掲げた闘いをたたきつけた。それは、米軍を「解放軍」規定し労働者階級の闘いを圧殺した日本共産党の屈服と裏切りを乗り越えていく闘いであり、帝国主義とスターリン主義への怒りの爆発だった。

血債の思想を根拠に

 被爆者の帝国主義への根底的怒りを解き放つ決定的契機となったのが「7・7自己批判」と「血債の思想」だ。
 「1970年7月7日、在日中国青年から日本人民のアジア侵略責任にたいする告発……を受けとめるところから、われわれははじめて被爆(者)問題をとらえはじめた。われわれはみずからがアジア侵略を担った人間であること……と同時に、この(戦後)26年間の在日朝鮮人・中国人にたいする抑圧の歴史に、人間的な自己批判を日本人民の組織的な、血の債務を支払うものとして展開せねばならない。広島、長崎の被爆は、日本階級闘争が、日本帝国主義のアジア侵略体制構築に敗北したことの結果であり、……だからこそ、われわれは被爆をもって、抑圧民族としての日本人民の歴史をなにひとつ免罪することはできない」(全国被爆者青年同盟編『君は明日生きるか』)
 「血債の思想」こそが被爆者英霊化攻撃と実力で対決する最深の根拠となったのだ。

被爆者抹殺と対決し

 戦後の日帝に「被爆者政策」は存在せず、一貫して「抹殺攻撃」としてあった。
 75年、昭和天皇ヒロヒトは被爆の責任について「こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ない」と言い放った。「国体(=天皇制)護持」のために沖縄戦、ヒロシマ・ナガサキを引き起こした張本人である天皇ヒロヒトのこの言辞こそ、被爆者と天皇制=帝国主義とが非和解であることを突きつけている。
 さらに日帝は、戦争責任・被爆責任を追及し国家補償を求める被爆者を「(被爆を)国をあげての戦争による『一般の犠牲者』として、すべての国民が等しく受忍しなければならない」(80年、茅7人委員会〔原爆被爆者対策基本問題懇談会〕答申)と切り捨ててきた。
 抹殺攻撃と闘い、反戦反核闘争の先頭に立ってきた被爆者の怒りと悔しさを解放する道はただ一つ、核と戦争を必然化する帝国主義、そして帝国主義に核武装で対抗するスターリン主義を倒すことだ。これ以外に戦争も核も廃絶することはできない。被爆者解放=日帝打倒へ闘おう!
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