■マルクス主義・学習講座 戦争と労働者階級――レーニンと階級闘争の歴史に学ぶ ⑸ 畑田 治

月刊『国際労働運動』48頁(0466号04面01)(2015/07/01)


■マルクス主義・学習講座
 戦争と労働者階級――レーニンと階級闘争の歴史に学ぶ ⑸
 畑田 治

(写真 株が大暴落したニューヨーク証券取引所。世界大恐慌の始まり【1929年10月24日】)


「戦争と労働者階級」目次
①第1次大戦とドイツ社民党(3月号)
②レーニンとボルシェビキの闘い(4月号)
③「4月テーゼ」と「国家と革命」(5月号)
④大恐慌・戦争とアメリカ労働運動(6月号)
⑤第2次大戦とスターリン主義の裏切り(今号)
⑥大恐慌・戦争を世界革命へ

第五章 第2次大戦とスターリン主義の裏切り

大恐慌と第2次世界大戦

 第1次世界大戦(1914~18年)で戦場となったヨーロッパは、戦争による荒廃で大打撃を受けた。どこの国も戦争で金を使い果たして、復興資金がなかった。アメリカの資本と借款がドイツや西欧諸国に流れ込んで戦後復興を支え、通貨を安定させ、財政を立て直した。1925年には戦争前のレベルに回復し、世界恐慌が起きる1929年の前半までは生産と貿易は世界的に拡大した。
 しかし、その戦後復興を通して、帝国主義の矛盾と危機は一層深まった。工業における合理化は、最新の機械を使うことで、ますます多くの労働者の首を切った。労働者の賃金は低く抑えられた。だから生産が増えても、労働者階級の購買力はわずかしか増加しなかった。合理化は労働者への搾取度を強めて、「余剰」となった労働者を街頭に放り出すことであり、資本家だけが莫大な利益を上げたのである。
 植民地と「後進国」でも農業、牧畜、林業などの各種原料の生産が増加したため、たちまち過剰生産に陥った。農産物の価格は半分以下になり、農業恐慌が植民地・「後進国」を襲った。住民の不満と怒りは、革命闘争や民族解放闘争となって、激しい勢いで各地に広がった。
 また、ヨーロッパの復興はアメリカの資金に依存していたため、資金の流入が止まったり、資金が引き揚げられれば、たちまち債務を支払えなくなる構造的な弱さを抱えていた。そうなると、アメリカは自国で過剰となった商品をヨーロッパで売れなくなり、つまり米欧双方で経済危機に陥ることを意味していた。
 アメリカの農業も、競争国の登場やヨーロッパ農業の復興のため、過剰生産で不況が慢性化した。さらに、20年代のアメリカの「繁栄」を支えたのは住宅建設・自動車・電機などであったが、旧来からの石炭・紡績・造船・皮革などは、好況期にあってもまったく振るわなかった。むしろ衰退したのである。合理化により失業者は増大し、個人の負債は増加し、信用取引はいつ崩れるか分からない不安定な状態であった。
 このような事業不振と資本主義(帝国主義)固有の根本的な矛盾(労働力の商品化に根源を持つ)が、29年10月のニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけに大恐慌となって爆発したのである。アメリカ資本が引き揚げられると、ドイツ、オーストリア、中南米諸国に金融恐慌が起こり、それがアメリカの金融機関を倒産に追い込み、恐慌は全世界に波及した。
 1929年から33年にいたる世界大恐慌は、歴史上かつてない、激しい恐慌だった。世界の工業生産額は25~29年の平均を100とすれば32年第3四半期(7~9月)は66に低下した。29年から32年までに世界貿易は71%も減少した。米欧の失業者は3千万人~5千万人に達し、賃金はほぼ半分になった。
 このように大恐慌が全世界に波及すると、帝国主義各国は、市場・勢力圏や石油・工業資源を確保するために、自国の利益追求をむき出しにした争闘戦政策を強めるようになった。1931年9月、イギリスが金本位制をやめ、さらに32年7~8月のオタワ会議で、イギリス連邦が広大な領域を外国に閉ざし高い輸入関税を外国製品にかけ始めた。するとフランス、アメリカなども高率関税や輸入品目・輸入量の制限、外国為替の国家管理などで対抗的に閉鎖的な経済圏(ブロック)をつくり始めた。
 このようにして、29年の大恐慌は、第1次大戦後に再建された帝国主義の体制を一挙に崩壊させた。1920年代のつかのまの「国際協調」は完全に崩れ去り、世界経済は分裂しブロック化し、縮小した。英米仏など「持てる国」が閉鎖的なブロック経済政策を強めると、ドイツ、日本、イタリアなどの「持たざる国」は危機感を強め、英米仏との対立を激化させた。日本帝国主義は1931年、「満州事変」を引き起こし中国侵略戦争を拡大した。32年に「満州国」をデッチあげ、33年には国際連盟を脱退した。ドイツはナチス・ヒトラー政権のもとで36年にロカルノ条約を破棄してラインラント(フランス・ベルギーと接するライン川沿岸地域)に進駐した。こうして大恐慌と世界経済の分裂は、帝国主義を再び世界大戦へと向かわせたのである。

レーニン『帝国主義論』の革命的意義

 レーニンが『帝国主義論』を著したのは第1次世界大戦のさなかの1916年だったが、その内容は、それ以降も第2次世界大戦から今日にいたる帝国主義の基本動向を正しく見通している。私たちが階級的な時代認識を持ち、帝国主義と戦争の不可避的な結びつき、帝国主義の「平和」と戦争の一体性などをつかむ上で重要な指摘なので、いくつか引用する。
 「資本主義は、地上人口の圧倒的多数に対する、ひとにぎりの『先進』諸国による植民地的抑圧と金融的絞殺とのための、世界体制に成長転化した」
 「金融資本の基礎の上に成長する経済外的な上部構造、すなわち金融資本の政治やイデオロギーは、植民地征服の熱望を強める」
 「資本主義の基礎の上では、一方における生産力の発展および資本の蓄積と、他方における植民地および金融資本の『勢力範囲』の分割とのあいだの不均衡を除去するのに、戦争以外にどのような手段がありうるだろうか?」
 「資本家たちが世界を分割するのは、彼らの特殊の悪意からではなくて、集積の到達した段階が、利潤を獲得するためには、彼らをしていやおうなしにこの道をとらせるからである」
 第1次大戦が終結し、ベルサイユ条約が結ばれ、「国際連盟」が設立され、ヨーロッパは1920年代につかの間の「平和」を取り戻した。しかし、それは29年の大恐慌―30年代の争闘戦・ブロック化―第2次大戦までの、きわめて短期間の「息ぬき」でしかなかった。次のレーニンの指摘は、これを予見している。
 「(帝国主義の)これらの同盟がどのような形態で結ばれようと、......不可避的に戦争と戦争とのあいだの『息ぬき』に過ぎない。平和的同盟は戦争を準備するが、それはまた戦争から生まれるのであって、この両者は、相互に制約しあいながら、世界経済と世界政治との帝国主義的関連および相互関係という同一の地盤から、平和的闘争と非平和的闘争との形態の交代を生み出す」
 「生産手段に対する私的所有が存在している限り、このような経済的基礎の上では、帝国主義戦争は絶対に不可避である」
 これは、21世紀のこんにちにもあてはまる重要な指摘である。
 もうひとつ、レーニンが指摘している点は、帝国主義各国は革命を未然に圧殺するために、排外主義と植民地(勢力圏)の獲得――そのための戦争に訴えるということである。この点について、レーニンはフランスの著述家の次の言葉を引用している。
 「生活の複雑さと、単に労働者大衆だけでなく中産階級をも圧迫している困難とが増大した結果、すべての旧文明国では焦燥、憤怒、憎悪が充満して社会の治安を脅かしている。一定の階級的軌道から発せられるエネルギーは、用途を見出さなければならず、国内で爆発が起こらないように、国外で活動させなければならない」
 まさに20世紀から21世紀の現代において一貫して問題になっていることは、〈帝国主義戦争か、プロレタリア革命か〉ということである。「帝国主義はプロレタリアートの社会革命の前夜」(『帝国主義論』序言)なのである。

大恐慌下のアメリカ労働者階級の闘い

 大恐慌下、1930年代に労働者の生活はどん底に落とされる中で、革命の炎は全世界で赤々と燃え上がった。ここではアメリカのゼネストを取り上げたい。
▲サンフランシスコのゼネスト
 1934年7月、サンフランシスコで港湾労働者を先頭とする歴史的な大ゼネストが闘われた。
 サンフランシスコの港湾労働者の一番大きな不満は、労働者を整列させて選別して雇い入れる方法(シェイプ・アップ)であった。毎朝6時に海岸に並ぶが、雇われるとは限らなかった。労働者の95%が参加する国際沖仲仕労組(ILA)はこれになんら異議を申し立てようとしなかった。そこで戦闘的労働者は「ランク&ファイル」の運動を起こした。中心になったのはオーストラリア人のハリー・ブリッジズだった。
 彼らは「整列雇い入れを廃止し、組合の雇用事務所がその業務を行うようにせよ」と要求して経営側と交渉した。だが、あいまいな回答に終始したため、34年5月に西海岸2千マイルの港湾で一斉にストライキに突入した。
 スト支援の波は広がり、チームスターの組合は荷を運ばないことを決議し、海運労働者は船が港に着くと全乗り組み員が船を離れ、ストライキに加わった。
 スト中の労働者と警察とのあいだで激しい戦闘が繰り返された。7月5日の戦闘では労働者2人が殺され、115人が病院に収容された。
 5日夜、カリフォルニア州知事は、1700人の州兵を派遣した。彼らは労働者を射殺してもよいとの指令を受けていた。
 ここで合同海運ストライキ委員会はゼネストを呼びかけ、サンフランシスコの13万人の労働者がゼネストに突入した。タクシー、トロリー、市街電車の労働者がストに入り、市内の輸送は事実上停止した。多くの商店はゼネストに連帯し店を閉めた。
 カリフォルニア州知事は「ゼネストは、政府の権威に対する挑戦である」と述べ、同州の上院議員は「革命は発展途上にあるのではなく、現実に始まっているのだ」と震え上がった。
 4日目にゼネストは中止されたが、この闘いは労働者を奮い立たせ、その後も西海岸の労働者は繰り返しストライキで闘い、要求を実現した。
 この闘いの中からILWU(国際港湾倉庫労組)が生まれた。

▲ミネアポリスのゼネスト
 1934年初め、中西部ミネソタ州の都市ミネアポリスでもゼネストが闘われた。鉱業所で働いていたチームスターに所属するトラック運転手が、組合の承認を求めて77鉱業所のうち65カ所でストライキに突入した。雇用主たちは3日間で降伏し、チームスター組合支部を承認した。
 だが、運送業者が組合との協定締結を拒否したので、チームスターは5月12日の集会でストライキを可決しゼネストに突入した。一台のトラックもミネアポリスで動かなかった。トラック運転手100人からなる委員会が、公式のストライキ本部であった。警備部隊が本部を守り、小型軽機関銃を携えた労働者が屋上で見張りについた。
 ストライキの主要な戦術は「遊撃隊」で、これはスト本部の指令で動く、移動ピケのシステムであった。本部にはつねに500人のスト要員が詰め掛けていた。4本の電話が町中のピケ隊長と連絡を取り合っていた。「警察に護衛されたトラックが生産物を出荷しようとしている。10人のピケしかいないので応援を頼む」「町に入ろうとするトラック5台を引き返させた」
 そのような情報をもとに、特派係は求められればどこへでも本部から出動した。
 120人が日夜食事を用意し、最も多いときには1日で1万人が本部で食事した。医師2人と看護婦3人をもつ病院が設けられた。
 その後、州知事が戒厳令を発動し、8月1日には指導者68人を逮捕した。しかし、労働者は封鎖された本部に代わって市内各所に20もの臨時本部を設置して闘いを継続した。1カ月間の闘争で市はがたがたになり、雇用主たちは降伏した。闘いは勝利した。
 このほかにも鉄道労働者の闘いなど、1930年代のアメリカ労働者階級のゼネスト闘争は、ロシア・ボルシェビキのような革命党が存在すれば、プロレタリア革命まで発展したに違いない革命的・内乱的な闘いが展開された。

スターリン主義の戦争協力、革命の放棄

 プロレタリア革命は本質的にも現実的にも世界革命であり、ロシア革命の勝利はその突破口であった。そして、ドイツ、フランスを始め、引き続く革命の勝利によってしか、革命ロシアが直面している困難を突破する道はないことを、レーニンは痛切に認識していた。そして、その勝利のために全力を挙げた。
 ところが1924年のレーニン死後、ソビエト指導部の権力を握ったスターリンは、世界革命をめざしたレーニンの苦闘を放棄し、トロツキーなどの世界革命派を追放して「一国でも社会主義は可能」という反革命理論をデッチあげた。それは世界革命に向かっての困難な闘いを放棄し、帝国主義と共存して革命ロシアが変質しながら生き延びていくための裏切りのエセ理論であった。
 スターリンはトロツキーなど革命の先頭に立った同志たちを次々と大量に粛清し、革命ロシアの変質を推し進めた。それは、当然にもプロレタリア革命の〈労働者階級の自己解放闘争〉としての本質を破壊し、ソ連国内建設の反労働者的=官僚主義的な歪曲と、世界の共産主義運動の反革命的変質をもたらした。ドイツ、フランス、スペイン、アメリカ、日本を始め帝国主義ブルジョアジーと闘う世界の労働者階級の闘いを、スターリン主義者は資本家と手を結んで押しつぶしていった。これがスターリン主義反革命である。そしてそれは、帝国主義の再度の世界戦争と延命を許すことになった。
 大恐慌から1930年代には、労働者と農民、被抑圧人民の闘いが全世界で嵐のように巻き起こり、帝国主義体制は総崩壊の瀬戸際まで追い詰められた。プロレタリアートが帝国主義を打倒し世界革命を成し遂げる現実性がリアルに存在した。それを暗転させたのがスターリン主義である。これに助けられて帝国主義は、プロレタリア革命を押しつぶす狙いをも込めて、戦争に突き進んだ。つまり第2次世界大戦は、スターリン主義によるプロレタリア革命の圧殺、帝国主義との結託を決定的な要素として現実化したのである。
 スターリンはドイツ国防軍と秘密の相互援助協定を結び、ドイツ国防軍からソ連赤軍への技術援助を受けた。それはドイツ革命の絞殺と引き換えであった。スターリン主義的に変質したドイツ共産党は「社会ファシズム論」をもってナチスと統一行動を行い、社民党系の労働者を襲撃した。ドイツ共産党=スターリン主義が、ナチスの政権掌握を助けたのである。
 そして、スターリンがナチス・ヒトラーと手を結んだ1939年8月の独ソ不可侵条約は、全世界のプロレタリアートの反帝国主義の闘いに致命的な打撃を与えた。この直後、9月1日にドイツはポーランドに侵攻し第2次世界大戦が始まったのである。
 ところが、1941年6月、ドイツ軍が独ソ不可侵条約を一方的に破棄してソ連への侵攻を開始した。これを契機にソ連スターリン主義は、「反ファシズム」「人民戦線」を名目にして米英仏帝国主義と連合し、一方の帝国主義陣営の側に立って戦争に参戦するという驚くべき対応を行った。このソ連スターリン主義の大裏切りによって、全世界で数千万人もの労働者・兵士が戦争で殺されたのだ。
 アメリカでは、共産党員が自国帝国主義の強盗戦争を積極的に「反ファシズムの解放戦争」と呼んで軍隊に志願し、戦場に赴いた。ある共産党員は次のように書いている。
 「僕たちは、ルーズベルトの後ろに国民が団結することをはっきりと支持し、連合国に対する彼の援助政策を全面的に支持した。なぜなら、連合国の中にはソビエト連邦も含まれていたからだった」
 「(日本軍が真珠湾を攻撃した直後の)41年12月16日、僕は陸軍新兵徴募本部に出かけていって志願した。国中で、若い共産主義者も、年とった共産主義者も志願しつつあった。実際、およそ1万5千人のアメリカの共産主義者が軍隊のメンバーになった」
 「多くの場所で、党の正式の送別会が開催された。僕が宣誓して入隊した日には、たまたまニューヨークの共産主義者が会合を開いており、2千人が集まっていた。僕がいま合衆国陸軍に入ったばかりだという報告は、割れるような拍手で迎えられた」(ジョン・ゲーツ『スターリン主義に抗して』)
 当時アメリカ共産党の影響力が強かったCIO(産業別組合会議)の幹部フィリップ・マレーは、ラジオを通じて「働け!働け!働け!生産だ!生産だ!」と労働者に呼びかけた。工場ではストライキを禁圧し長時間労働に協力した。武器弾薬、戦車や軍艦、戦闘機の生産に全力を挙げた。こうしてスターリン主義は、アメリカ帝国主義の強盗戦争を支えた。(以上、第5章)