耕作権はいかに闘いとられたか① 戦前・戦後の農民闘争の成果 極悪の多見谷判決! 農民の命=耕す権利を抹殺

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週刊『三里塚』02頁(0897号01面03)(2014/06/09)


耕作権はいかに闘いとられたか①
 戦前・戦後の農民闘争の成果
 極悪の多見谷判決!
 農民の命=耕す権利を抹殺

(写真 1945年11月3日に行われた日本農民組合結成準備委員会【蔵前工業会館】)


 今回より4回にわたって、「耕作権はいかに闘いとられたか」と題した連載を開始する。趣旨の第一は、「農地法による農地の取り上げ」という市東孝雄さんへの攻撃のデタラメさを農地法の成立過程=農地改革にさかのぼって明らかにすること。第二に、不十分性がある農地法だが、その成立の前提には農地改革があり、それを帝国主義に強制した戦前・戦後の農民の実力決起があった。この歴史の中に「耕作権」という権利思想の確立を探ること。第三にそれらの中に労農連帯成立の根拠を見ていきたい。
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 市東孝雄さんの農地取り上げを認めた千葉地裁・多見谷判決は、1952年農地法の制定以来初めて、専業農民の営農をつぶす農地転用を認めた前代未聞の極悪判決である。農地法は、生産者と土地の関係を「耕すものに権利あり」として制度化し、耕作農民以外の農地買収を禁止するなど転用を社会的に規制した。多見谷裁判長は、この農地法の立法目的である耕作者主義を否定し、空港公団(現成田空港会社)による小作者の同意なしの売買を追認する事実上の〝農民殺し判決〟を行ったのだ。
 市東さんの農地攻防の最大の焦点である耕作権は、戦前および戦後革命期の労働者・農民の闘いによってかちとられたものである。そして今日まで、労働者農民と資本の階級的力関係が大資本に農地所有制限を強制し続けている。これを覆すものが、市東さんに対する農地強奪であり、TPPである。
 この攻撃を打ち破るために、2点を結論として確認したい。
 第一に市東さんの農地裁判を、農地法解釈に限定したブルジョア権利擁護の立場を克服し、労農連帯の階級的課題として闘うことである。階級的立場から農地法の「耕作権」を徹底的に活用し、農民を保護する趣旨の農地法を使って農地を奪うという敵の攻撃の根本的破綻性を暴くのだ。
 農地法の成立過程は、農地解放をめぐる激しい攻防と重なっている。戦後革命情勢の中、49年を前後して、農地改革の終了か、さらなる土地闘争への発展かが、階級攻防の焦点に押し上げられた。一方では、吉田茂政権の改革打ち切りのための予算処置や人員削減が提案され、他方で日本農民組合(日農)の第3次農地改革(農地改革の完結)要求がなされた。戦後農地解放闘争の只中での激突点において、支配階級と労働者・農民階級の力関係の均衡点として耕作権の確立が農地法として条文化されたのだ。
 農地法のブルジョア的権利の限界は、当時の農民からも問題にされていた。日農(主体性派)の農地法案の反対意見(第10回中執委)では、①小作地の地主への返還規定の削除、いかなる理由にかかわらず地主の小作取り上げの禁止、②土地収用法は農地に対する保護規定を明らかにしてその発動を制限する、などが提起された。この要求は通らずに農地法政府案が可決されることになるが、ただちに砂川闘争の土地取り上げをめぐり階級闘争の発火点に転化したのである。三里塚における土地収用の発動と市東さんの農地の空港公団による違法買収と取り上げは、この意味でも、戦後耕作権をめぐる農民の死活のかかった最大テーマなのだ。
 第二に、市東裁判闘争に勝利するために日共及び社民・農民組合主義者など既成勢力による戦後農地解放闘争の歪曲を粉砕し、全国農民会議を先頭とする戦後農民闘争の復権と労農同盟の実現をかちとることである。

農地改革めぐり

 戦後革命を敗北に導いた日共(及び社民)は、その責任を転嫁するために農民の保守化・自民党の農村支配を強調した。そのテコが農地改革であったことから、それを「偽りの農地改革」(日共51年綱領)と規定し、その成果(巨大な農民闘争の展開や労農連携の実現)まで歪曲した。これに対して、次の2点を強調する必要がある。
 ①耕作権の確立は、戦前・戦後の農地解放闘争の達成物であった。「すべての土地を農民に」。このロシア10月革命・労農ソビエトの布告は、全世界の労働者農民を奮い立たせた。戦前日本の小作争議もそうであり、農民組合運動を発展させ、戦前革命運動の一大拠点となった。
 「上からの改革=予防反革命」である日帝やGHQの農地改革の意図も戦後革命的情勢下で農民・農村反乱の巨大な爆発と労働者の闘いが結合することを恐れたためであった。
 ②土地闘争も含めた戦後農民闘争全体、農村における階級闘争の激化と労農連携の闘いの成果として、耕作権の確立を位置づけることだ。
 直接にも耕作権の確立は、戦後革命期の労農連携の階級的獲得物であり、戦後階級闘争における労働者と農民の共同の闘いの成果である。他方で、農民解放・土地革命はプロレタリア革命とプロレタリア独裁による社会変革の中でしか達成できず、日本農民の課題として戦後闘われ続けることにもなった。(その特殊形態が、砂川や三里塚とも言える)
 戦後農地解放闘争は戦後革命の敗北とスターリン主義による歪曲によって完遂できず、その一定の達成物が農民解放の道=労農同盟による解決から断ち切られて戦後憲法的権利に固定化されてしまったが、三里塚における収用阻止など耕作権確立の力関係は、農地売買・所有の制限をブルジョアジーに強制し続けている。
 この階級的地平を打ち固め、国鉄決戦を軸とする階級的労働運動を力にしてこそ、市東さん農地闘争の反転攻勢はかちとれる。戦後農地解放闘争を明らかにすることは、市東さん農地闘争を、農地法擁護運動を越えて、労農連帯の巨大な大衆決起の領域を開くためにも必要である。
 この耕作権の戦取には、戦前の長い農民の苦闘が前提となっている。
 17年ロシア革命を引き金として全世界のプロレタリアート人民が総決起を開始した。日本では、翌年の米騒動をもって、プロレタリアの組織的闘いの端緒が開かれた。この米騒動を契機に、日本における近代的労働運動は覚醒するのである。
 米騒動は、都市での騒乱が大きく取り上げられているが、農村においても地主=高利貸し・米穀商に対する攻撃が行われた。例えば、京都府の津川村では、消防組合を先頭に50〜60名が火防器具を持って屋内に乱入、屋根瓦までつぶてにした。山梨では、甲州財閥の地主商家へ消化ポンプに石油を注入し火を放った。 米騒動後、都市の労働組合運動の支援を受けて、農民組合運動も発展した。個別の小作料軽減を求めた大衆団交的行動から始まり、「永久小作料三割減」のスローガンによる全国的な組織化と地主階級への闘いへと発展する。日農の機関紙「土地と自由」60号は次のように述べている。
「(小作料軽減運動から)更に前進しようとしたとき、地主のため立ち入り禁止、立ち毛(注)差し押さえ、土地返還等の暴圧を加えられ、如何ともすることができないので、耕作権確立の必要に迫られていた」
 農民は、地主がブルジョア所有権によって土地取り上げ・差し押さえを強行するのに対し、組織と団結の力をテコに反撃した。この中で「耕作権」を論理化した。①登記を経ずして所有者すべての第3者に対抗しうるもの、②土地立ち入り禁止ならびに明け渡し等の不当処分に対抗しうるものとすること、③所有者に変動あるも耕作権に何らの影響を及ぼさざること(青木恵一郎「日本農民運動史」第3巻などより)。耕作権は、農民の土地に対する自然史的な関係を素朴に表していたとともに、革命的な大衆行動と結びついて大土地所有の没収のスローガンとして「すべての土地を耕作農民へ」=労農ソヴェトの闘いへ転化する内容に発展したのである。
 この「耕作権」思想は、当時の激しい小作争議の中で深められていった。香川県大田村伏石闘争(1924年)では、地主の稲の差し押さえに対して、農民組合は脱穀共同作業で闘ったが、権力の暴力事件のでっち上げによって60人以上の逮捕1人の自殺、2人の精神障害、闘争を指導した弁護士の自殺未遂を引き起こし社会に衝撃を与えた。日農声明では「小作人が汗と脂との辛苦を持って育成しきった稲、彼にとっては唯一の生活の糧である。(仮差押で)小作人は何ら手をふるることができぬ。この精神的苦痛と、生存上の脅威とはいかなる程度であるか」と表明している。このような農民運動は、20年代に飛躍的に全国に広がり、戦前における階級闘争の大拠点を形成したのである。(つづく)

(注)成育中の作物、特に稲のことを言う。

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