耕作権はいかに闘いとられたか ② 戦前・戦後の農民闘争の成果 敗戦後渦巻く農民決起 地主打倒し農地改革を強制

週刊『三里塚』02頁(0898号02面06)(2014/06/23)


耕作権はいかに闘いとられたか ②
 戦前・戦後の農民闘争の成果
 敗戦後渦巻く農民決起
 地主打倒し農地改革を強制


【1】敗戦直後の農村
 敗戦は、大量の戦災者・失業者をうみだし、農村も引揚者・復員者の受け入れと物資の不足による生産の落ち込みで貧窮が進んだ。農民の日帝に対する怒りは、戦時徴発・配給の戦時統制をとおした軍・官僚・農村ボスをめぐる不正や不満を契機に爆発した。天皇制の下、農村支配の末端を担っていた村行政と農業会に対する怒りが農村に広がった。常東農民組合の山口武秀氏は次のように述べている。
 「戦前、厳しい圧迫と弾圧の中で、小作料軽減、耕作権確立を叫んでかさねてきた尊い経験は、広く農民に記憶されていた......今度こそは押しまくれるという自信が腹のそこからわいてくる」(「農民運動家の記録」)。
 戦前からの日農の活動家は敗戦直後から民主化闘争・食糧管理闘争、農地取り上げ阻止闘争に決起し、これらを担った新たな青年たちが戦後革命を組織する活動家に成長していった。
▼栃木県金田村の農業会民主化闘争
 栃木県那須野が原の開拓地、当時1600戸の金田村の46年1月の農業会の光景は、その時の民主化運動を伝えている。 「農業会長である村長が開会を宣言すると、K氏が突然、『議長は民主的に選挙せよ』と発言、会場から、『賛成!K君!』という声。K氏が議長席にあがって行って村長を押しのけ、自ら議長席に着き『農業会を民主的な「共同組合」に変えるために会則変更をはかります。異議ありませんか』、と原案を読んで簡単に可決。役員の改選で自分たちの名前を挙げて、これも可決」。このような支配の転覆、一種の「革命」が全国で次々と行われた。
【2】土地取り上げの激化
 農村の階級対立を沸騰寸前にまで押し上げたのが、地主による小作地の取り上げであった。45年8月15日から12月31日までの4ヵ月半に争議件数は2012。そして、46年の地主の小作地引き上げ要求は20万件を超えた。小作争議は、戦時下でも年に千件程度発生していたが、終戦とともに激増、政府の農地改革案が公表されるとさらに増加した。しかもこれは統計上の数であり、争議として表面化しない場合が大多数であったから実際はもっと多い。
 この土地取り上げ阻止闘争をばねに日農は、農地改革における執行機関である市町村の農地委員会内の力関係を逆転させ、地主の抵抗を打ち砕いた。当時の農村の情勢を、松村謙三(農相)は次のように回想している。「敗戦国では土地革命をやらねばならぬ事態に追い込まれている。...このまま放っておけば多分に農村は共産化するおそれがある」、農地改革を「断行することこそ最善の途」と追い込まれたのである。
【3】農地改革
 このように農地改革の背景は、農村の階級対立の激化、食糧危機による階級支配(治安維持)の崩壊であった。土地闘争をテコに農民運動が労働運動と合流し、権力闘争に発展することに国家権力は恐怖し、予防反革命として改革に取り組んだのである。本稿では農地改革を推し進めた日帝と米帝の意図と動機に絞って見ていく。
①幣原・松村―日帝独自の改革案(第一次)
 10月4日GHQ人権指令(治安維持法の廃止など)によって倒閣した東久邇内閣のあとを継いだ幣原内閣は、11月5日に「土地制度の改革」を閣議決定する。この土地改革決定は、日本政府の経済民主化計画の一つであった。
②占領政策としての農地改革(第二次)
 12・9マッカーサー「農地改革についての覚書」(農民解放指令)を皮切りに、第一次改革法を微温的なものであると否定し、より徹底的な小作地強制買収の第2次改革案の策定と実施を監督していく。
 後にマッカーサーは農地改革を「最も成功した改革」と自画自賛したことから、占領政策の最初から農地改革が民主化政策として予定されていたかのような予断が生まれたが、事実は反対である。実は終戦直前の最終決定は、「強行すれば、ただ失敗し共産主義の道を開くだけだ」との意見の中で、「農地改革」計画を否決したのである。そのため、「初期の対日方針」および「五大改革」には、「農地改革」は言及されなかった。
 なぜ、10月から11月にかけて急転し、「農民解放指令」に至ったのか。GHQも、日帝も答えを明確にしていない。しかし、農村改革を強く打ち出さなくてはならない階級情勢に直面していたのである。村政民主化を求める闘いは始まり、戦前・戦中を通して没落を深めていた地主制の崩壊は不可避であった。農村の階級支配が破綻、続けて占領支配そのものも危機に陥ることを米帝は考量し、農民の経済的地位をブルジョア的範囲内において改良し、都市の労働運動との合流をせき止める逆転的な手法で階級支配の安定を図ったのである。
【4】帝国主義の農地政策の背景
 この動機の背景にあるのは、ヨーロッパ諸国の革命情勢とアジアにおける民族解放闘争の勝利的前進である。その中で農民問題の世界的な爆発(イタリアの土地占拠、朝鮮・ベトナムの農地解放など)に帝国主義は直面したのである。
 GHQ農地改革の設計主任といわれアジアの農地改革を指導したW・ラデジンスキー(農務省出身)は、「農民が法を無視して自ら権力を行使し、農村を燃え上がらせる前に、平和的に時を得た改革を行って、そのような革命的な暴発を防ぐことにある」(「農業改革―貧困への挑戦」)と農地改革の意義を総括している。
 このように、帝国主義は農地改革をプロレタリア世界革命に対抗する安全弁として重視した。しかしアジアの農地改革は、日本・台湾以外失敗している。
 このラデジンスキーの敗北は、帝国主義による土地改革が不可能であること、反対に日本の農地解放は農民が粘り強く闘いつづけ、敗戦による権力の支配力の下、労農連携の共同闘争の中で初めてかちとられたことを示しているのだ。
(つづく)

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