農民殺しを導く極悪判決 千葉地裁 多見谷判決弾劾する 10・8控訴審闘争勝利にむけて

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週刊『三里塚』02頁(0902号02面01)(2014/08/25)


農民殺しを導く極悪判決
 千葉地裁 多見谷判決弾劾する
 10・8控訴審闘争勝利にむけて

(写真 6月25日の東京高裁包囲デモ)

①NAAの文書偽造を追認してこれに加担

署名と印鑑

(写真 筆跡鑑定により市東さんの署名が偽造だったことが証明された。写真は鑑定書の一部。左右の筆跡がまったく違う)

 多見谷判決の反動性の核心は、農民としての市東孝雄さんから、その生きるための唯一の手段であある農地の大半を奪うことを許容した点にある。まさに「農民殺し判決」であって、補償金で償うことのできる話ではない。市東さんは「農民として生きることを生きがいにしている」「天神峰の地で農民として生きたい」と言っているのだ。判決批判そのものについては、2章以下で論じるが、ここではまず、旧空港公団〜現成田空港会社(NAA)がくり返してきた権力犯罪を象徴するものとして天神峰南台の畑特定をめぐる書類の偽造に一旦焦点をあてる。空港公団〜NAAがいかに追いつめられ、法的にも無理に無理を重ねて、市東さんの農地強奪を企んできたのかについて、明らかにしておきたい。 
 文書偽造問題とは、問題になっている天神峰南台の市東家の畑の底地について、旧地主であった藤﨑政吉氏から当時の空港公団(現NAA)が1988年4月に買収する時に、市東さんの畑について、境界を確認し、面積を確定するための「境界確認書」「地積測量図」「同意書」をNAAが、署名と印鑑を偽造して違法に作成した事件を言う。
【ちなみにこの偽造問題は、今闘われている耕作権裁判(千葉地裁民事第2部)での文書提出命令攻防の焦点そのものであって、当の耕作権裁判と本農地裁判控訴審の帰趨に関わる重大問題だ】
 なぜ、「公正」を建前とする準政府機関の空港公団が刑事罰すらありうる偽造犯罪に手を染めたのか。それほど追いつめられていたのだ。
 当時の経過を振り返ってみる。土地収用法に基づく事業認定の期限が1989年12月15日に迫ってることに危機感を募らせた空港公団は、1986年後半頃からいよいよ収用裁決の認可〜強制収用へと、全体重をかけ始めた。それが、87年4月の裁決申請書の変更報告だった。
 この変更報告で初めて天神峰南台に故市東東市さん(孝雄さんの父)の小作権が存在することが明記され、その収用裁決の申請が加えられのだった。
 強制収用攻撃の条件整備として、87年秋から公団は、藤﨑氏からの底地の買収攻撃を本格化させ88年4月に買収契約を済ませる。この過程で、前述の3つの偽造が強行された。
 藤﨑氏からの買収のためには畑の範囲と位置の特定が不可欠となる。市東さんの立ち合いの元での境界確認がなされなければ、通常不動産取引はできない。
 ところが、空港絶対反対の市東東市さんが、そのような境界確認に立ち会うこともありえなければ、自分が確認してもいない地積測量図や同意書などに署名したり、印鑑を押すはずもなかった。
 追いつめられた空港公団は、そのために前記3つの書類を4月11日に偽造して、藤﨑氏と4月12日に買収契約を行った。これらの経緯で分かるように、重大な権利者であり、利害関係者である市東東市さんを完全にラチ外におき、秘密裏に空港公団と藤﨑氏の間で天神峰南台の底地売買が行われていたのだ。その後15年間も旧地主である藤﨑氏が地代をだまし取っていたことは周知のことだ。

なぜ犯罪に手を

 問題はここからである。なぜ、このようなずさんかつ違法な手法に、空港公団が訴えたかというと、空港公団は高をくくっていた。「藤﨑氏との契約に関わる3つの文書に多少のウソがあっても、収用裁決が下りれば強制収用が可能となる。そうすれば、手続きの違法はすべて闇に葬れる」と。
 事実、収用委員会再開に向けて、マスコミなども使って、88年夏の再開をキャンペーンし、収用委員会そのものに対しても公団総裁を先頭に審理再開を強要していった。産経新聞は88年7月15付は「夏から秋には収用委員会再開の模様」と報じた。このまま行けば、偽造問題などが明るみに出るはずもなかった。
 しかし、「そうは問屋が卸さなかった」。「収用委員会再開を許すのかどうか」――三里塚闘争情勢はこの一点で白熱化して行った。反対同盟を先頭に「再開許すな」の大宣伝戦や集会、デモがくり返された。そこに9月27日、収用委員会会長の受傷事件が起き、全人民の怒りに包囲されていた収用委員が全員辞任するという、空港公団にとって驚天動地の事態が起きた。
 ついに1989年12月16日、事業認定は失効し、強制収用は不可能となった。さらに、これを追認するものとして、空港公団自身による裁決申請の取り下げが1993年6月16日に行われた。あらゆる意味で、土地収用法の発動は永遠に不可能となった瞬間だった。
 三里塚闘争のすさまじい力に圧倒されつつ、国交省・空港公団は2002年、未買収地を避けて、滑走路長を320㍍短くし、さらに滑走路の位置を800㍍も北にずらす、という前代未聞の非常手段をとって、暫定滑走路を強行開港した。「頭の上にジェット機を飛ばせば反対同盟も屈服する」との甘い見通しに頼ったものだった。
 「へ」の字誘導路は曲がったまま。ここで、農地法を悪用した裁判所の判決による強制執行の手段に訴えざるをえなくなったのだ。
 これは事実上の強制収用だ。その結果、前述した1987〜88年のすべての悪事が法廷の場でついに暴露されることになったのだ。
 国交省・NAAの手先と化した多見谷裁判長はこうした悪事のすべてに頬かむりし、ただただ、無理に無理を重ねてNAAを救済する判決を書いた。それが2013年7月29日の多見谷反動判決だ。
 いよいよその判決批判そのものに入る。

②農地法破壊し小作人の同意無き売買容認

収用法失効

 多見谷判決の第一の問題は、土地収用法の代わりに民法や農地法を使っての事実上の強制収用を容認したことである。
 第1章で述べたように、1969年12月16日に認可された成田空港の事業認定(土地収用手続きの土台)は20年が経過した1989年12月15日に失効した。その理由は、土地収用法には買い受け権という権利の規定があり(106条)、その権利が発生するのが20年だからだ。買い受け権とは、一旦収用された土地が20年たっても事業に利用されていない場合、収用された元の地主にその土地を買い受ける権利が発生する、という規定だ。
 この条文から、仮に20年以上たって土地を収用したとしてもその瞬間から元の地主に買い受ける権利が発生するため、その土地は元の地主に返されることになり、収用そのものが無意味になるのだ。また、事業認定を受けた土地、家屋は強い権利制限の下に置かれる。売買は禁止され、形状の変更も禁止だ。
 こういう権利制限の下に土地、家屋所有者を永遠・無期限に置くことは法理上ありえない。したがって、事業認定には20年という失効期限が存在する。
 当時運輸省は、「条文に書いていないから事業認定に期限はない」なる暴論で、反対同盟の主張を認めようとしなかったが、1993年6月16日、この失効を追認して裁決申請の取り下げを行わざるをえなかったのだ。
 では、なぜ事業認定に期限があるのか。それは土地収用法の本質に関わる。私有財産制を大原則とする資本主義社会において、土地収用法はこの財産権を否定する。まさにブルジョア社会の原則と衝突する極めて特殊な法律だ。
 そのため、その強権性と財産権とのバランスを取るために、あくまで「例外」として、制限を設けている。その一つが「買い受け権」であり、それに基づく失効期限だ。
 問題は事業認定の期限が失効した事業について、どう扱うかである。20年たっても完了できない事業はその時点で住民の理解は最終的に得られなかったのであり、「公共事業」としての正当性は失われている。任意買収はともかくとして、それ以後、用地取得について強制性を持つ手段は一切使ってはならない、ということなのだ。
 これが、「公用収用(公共事業のための強制的な用地取得)は土地収用法だけによらなければならない」という憲法の意味である。
 つまり、土地収用法の代用としての民法や農地法の活用はそれ自身が憲法違反なのだ。裁判所を収用委員会の代替機関に活用するなど、言語道断だということだ。
 さらに、市東さん側弁護団は、「控訴理由書」で、事実上の強制収用となる裁判所の判決に基づく強制執行について、「補償」問題の観点から違法であると、鋭く多見谷判決を批判している。
 多見谷判決の第二の問題は、数々の農地法破壊だ。
 ①農地法の立法目的は、第一条で、「農地はその耕作者自らが所有することを最も適当である」と規定している。耕作者の権利の保護を目的とした農地法でそもそも農地を奪うことなどできない、これは前提中の前提だ。農地法に受け継がれた農地改革自体が、農民特に小作人の権利保護を目的としているのだ。この原則を根本的に破壊しているのが多見谷判決だ。
 ②小作権者の同意なき農地の買収
 農地法は第3条2項1号で小作権者以外の者に売却する時は農業委員会はこれを許可することができない、と明記している。まさに、1988年4月12日の藤﨑氏から空港公団への売却そのものが、この農地法3条違反で無効なのだ。空港公団そしてその後身であるNAAは市東さんの畑の底地の所有者ではない。
 ③「転用目的としての公団の取得は小作権者の同意がいらない」の違法
 百歩譲って、転用目的の売買であっても知事の許可が必要であるというのが農地法5条だ。全国で成田空港建設だけが農地法施行規則により唯一例外とされている。
 成田空港だけ施行規則で国会での審理もなしに例外とされていることは、農水省が国会を無視して勝手に立法したことになり違憲だ。原判決では、この県知事の許可が不要であることを理由に、小作権者の同意も不要としている。しかし、県知事の許可がいらないことと、小作権者の同意も不要ということ別のことだ。
 農地法の精神からいっても、現に耕作して生計を立てている小作人の意志を無視して売買できるはずもない。この論理を認めるならば、農地賃借権の対抗力を認めた農地法18条は空文に帰すことになる。
 ④農地法第18条の破壊 農地法は18条で、農地の引き渡しがあれば、その後権利を取得した者に対抗できる、としている。この意味は、農地の引き渡しを受けて現に耕作している市東さんは旧地主から底地を買収した公団〜NAAに畑を渡さなくてもいい、ということだ。ところが、多見谷判決は、NAAに加担して「農地を引き渡せ」との判決を下した。ではこの18条はどうなるのか。こんな判決が許されるのなら18条はいらない。多見谷判決は農地法18条の前代未聞の破壊だ。
 ⑤しかも、今回の裁判で奪われようとしている面積は、1971年第1次、第2次代執行を足した面積を上回る戦後最大の農地の強制収用であり、市東さんの耕作面積の41%だ(別件の耕作権裁判を含めると73%にも上る!)。対象面積の膨大さから言っても民事裁判で取り扱う対象ではない。

③「強制的手段可能」とNAAの違法後押し

詭弁の数々

 1、2章で多見谷判決の骨格を批判したが、同判決のデタラメさは、それにとどまるものではない。以下、指摘する。
(1)「話し合いが頓挫した場合に強制的手段を講じてよい」とまっかなウソ
 判決は、「強制的手段の放棄」「謝罪」等のNAAの言明に対して、「話し合いが頓挫した場合には強制的手段を講じてよい」とまっかなウソをついてNAAを後押ししたのだ。
 国・NAAは、成田シンポ・円卓会議でこれまでの空港建設のあり方を謝罪し、「強制的手段を放棄」した。にもかかわらず市東さんに対する土地明渡しの提訴は、明渡しの強制執行を想定するもので、この公約に反する。したがってNAAは、弁論で公約の問題について一切主張せず、触れなかった。
 ところが、多見谷裁判長自らがなり代わって「話合いが頓挫した場合のことまで約束していない」と、勝手な助け船をしたのである。裁判官が、一方の当事者であるNAAに肩入れし、NAAが弁論していないことまで判決に付け加えることで、裁判所はまさにNAAの手先そのものであることを自己暴露したのだ。
(2)強制収用を否定するための稚拙な詭弁
 判決は「知事は賃貸借契約の解約申し入れを許可するにすぎず、賃借権消滅という法的効果を発生させるものではない」と言う。
 これは、当該行政行為の法的形式に依拠し、争いの内容を排除する常套手段である。「木を見て森を見ない」デタラメな論理である。
 NAAは、司法権による強制執行を前提に千葉県知事に農地法20条による解約通知許可処分を求めた。この処分を得れば小作人である市東さんに対して解約の申し入れを行うために行った。そして1年後には小作契約は終了し、市東さんの耕作権は奪われることになる。そして実際にもそうなった。その後、NAAは市東さんに明け渡しを求めて提訴している。こういう事実を前にして「解約申し入れを許可するに過ぎない」「賃貸借権解消の法的効果は発生しない」などとどの口で言えるのか。詭弁もここに極まれり、という極悪の判決文だ。
(3)取り上げ対象土地の誤り(特に41―9)、提訴取り下げたと言うNAAの失態を取り繕う

(写真 NAAは畑の場所特定を間違えた。Dは市東さんが耕作したことがない。Bを「不法耕作」としているが実際は契約地)

 判決は、NAAが41―9の明け渡しの提訴を取り下げたから「市東は、南台41番9の土地の明渡請求を受けるおそれがなくなったものといえる。...(だから)取消しを求める訴えの利益はない」と問題をすり替えている。
 空港会社の申請が対象土地を間違えている以上、許可処分に重大な誤りがあるのは当然だ。そもそも市東さんは、最初から誤りを指摘し、怒りをもって弾劾していた。訴訟の中で、境界確認書などのでっち上げを追及され、とうとうNAAは41―9の請求を放棄せざるをえなかった。これは申請そのものを無効にしている。それをNAAが請求を放棄したから市東さんに「訴えの利益がない」など詭弁を弄している。提訴を棄却すべきなのだ。

(4)告示区域外の県の転用相当判断について

(写真 41-8の内、空港敷地からはみ出した部分についてNAAは許可を取らなかった。これは違法)

  判決は、「南台41番8の土地の告示区域外の部分について転用計画を有していなかった」と認定しながら、空港会社も主張していない理由をこじつけて強弁している。
 ①「告示区域外の部分は約16%だから計画が無くともよいとの理屈は、全体の84%に計画を出せば100%の転用が認められるというデタラメな論理だ。この主張は他の事案(長野新幹線の用地買収)では、すでに退けられている。
②「袋地となってその利用に支障を来す」からという理由にいたっては、言語道断だ。一方的に農民の土地を袋地にしておいて、使い勝手が悪いから出て行けという居直り強盗の言い分である。
 総じて、多見谷判決は90年来耕作してきた市東さんの農地を取り上げる姿勢をむき出した反動判決である。多見谷判決を徹底的に批判しつくそう。そして3万人署名貫徹し10・8弁論闘争へ結集しよう。

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《市東農地裁判の年表》
1988年4月 空港公団が市東さんの畑の底地を地主・藤﨑政吉氏から密かに買収
2006年7月 成田市農業委員会、「解約許可」を決定、県農業会議に進達
   9月 県農業会議、「解約許可処分」決定。堂本知事これを追認
   10月 NAAが「不法耕作地」と称する部分について市東さんに畑の明け渡しを提訴(耕作権裁判)
2007年7月 市東さん、千葉県を相手どり解約許可取消の行政訴訟を提起
2008年10月 NAAが「契約地」と認める部分について市東さんに明け渡しを求める提訴(農地法裁判)
2011年1月 旧地主・藤﨑政吉氏は「地籍測量図も同意書も俺は知らない」と反対同盟顧問弁護団に言明
   12月 市東東市さん署名の偽造を暴露する筆跡鑑定書を提出
2012年10月 文書提出命令問題で耕作権裁判ストップ。以後今日まで
2013年7月 農地法裁判で一審不当判決

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