50周年記念企画 私と三里塚闘争④

週刊『三里塚』02頁(0944号01面02)(2016/05/23)


50周年記念企画 私と三里塚闘争④

新自由主義痛打した
「10・20」元全学連委員長 鎌田雅志さん

 三里塚闘争が始まったのは、私が小学6年生のときだ。中学3年の冬に東大安田砦の攻防戦があり、地元の東北大学、東北学院大学に機動隊が導入された。
 70年に入学した高校は紛争の真っ最中で、71年には沖縄返還協定批准阻止全校ストライキ。70年闘争は、日帝の再建と戦後発展が生み落とした全矛盾と対決する全人民的な闘いだった。
 特に、私と同世代の、胎児性水俣病の患者たちや三里塚少年行動隊の姿は衝撃だった。三里塚・水俣の実力闘争に、私はいつの間にか激しく共感していた。全金本山労組の争議の支援集会で毎回上映する三里塚闘争の記録映画を、わくわくしながら見ていた。帝国主義と実力で戦う「ベトナムと三里塚」が輝いていた。
 全学連が「全人民の武装的総決起で成田空港突入・占拠・解体へ」のスローガンを掲げた1982年の夏、私は中央執行委員長に就任した。秋には、「戦後政治の総決算」を掲げて中曽根政権が発足。実力闘争の砦・三里塚は、中曽根の登場と新自由主義攻撃を迎え撃ち、決戦に突入していったのだ。
 最大の攻防は、反対同盟に加えられた83年3・8分裂攻撃との闘いだった。一切の話し合い拒否・空港絶対反対、農地死守・実力闘争の路線の解体と、動労千葉との労農連帯の解体が攻撃の核心だった。あらゆる戦線が真っ二つに割れた。
 全学連は筑波大学化(学生自治解体)攻撃と闘う統一戦線を結成して、敷地内反対同盟と動労千葉とともに闘う学生の大結集運動を開始した。三里塚闘争が弾劾・追放・一掃を宣言してきたファシスト・カクマルは、この攻撃が始まると同時に、全学連の拠点大学・サークルなどへの襲撃を全国で開始した。

〝闘魂盛んなり〟

 「冬の時代」論を掲げて 国鉄分割・民営化攻撃の手先になり、ストライキを闘う動労千葉の解体を路線化した。
 全学連は体を張り血を流して、大衆的大結集を全力で推進した。
 「三里塚と動労千葉を守れ」を合言葉に全学連千人が三里塚に結集した1984年の秋、もうひとつの決戦が訪れた。成田用水決戦だ。市東孝雄さんの父、東市さんらが機動隊の暴行を受けて逮捕された事件を契機に、全学連は機動隊と激突する実力デモに転換する。スクラムを組んで機動隊に激突していくデモは、84年10月から10カ月間に200人を超える逮捕者を出した。
 三里塚第一公園に1万5千人を結集し、246人の逮捕者を出して戦った85年10・20の大衆的武装闘争の戦士たちが、ここで形成された。軍事空港建設のために農地を強奪することは、絶対に許せなかった。機動隊せん滅・空港突入! 国家権力・機動隊の暴力支配への怒りと憎しみが爆発した。
 市東東市さんは反対同盟の戸村一作委員長が大好きで、「戸村精神で闘う」といつも言っていた。その神髄は、労農連帯。闘いは孝雄さんに受け継がれ、萩原富夫さんという若いリーダーを育てながら、新自由主義を打ち砕く革命の砦が50周年を迎える。闘魂ますます盛んなり!

「現闘40年」は私の誇り
 江戸川産直の会
 市東さんの農地を守る会・江戸川 岸上雅博さん

 私は20歳の時(1969年)に、広島から東京の集会に参加し、その折に、連絡員として一週間の予定で三里塚現地に入り、そのまま現地にとどまり、以後40年間現地闘争本部に常駐して、三里塚現闘として闘い続けました。
 現闘が設置されたのは、1968年2月です。7人の現闘員が成田市駒井野の団結小屋に常駐したのが始まりです。1967年10・8羽田闘争から始まったベトナム反戦闘争のまっ只中で、反対同盟と砂川基地拡張反対同盟、全学連の三者共催の2・26現地総決起集会が成田で行われ、成田市役所隣の空港公団分室に対する実力闘争が闘われたさなかのことでした。
 現闘は、援農などで反対同盟農民の農作業を支えつつ、反対同盟とともに空港公団、国家権力・機動隊の暴虐と血を流して闘いぬきました。
 反対同盟は、1971年2月の「土地収用法」の発動(第1次代執行)に対して、自らの農地と生活を守るために、体を張って座り込み、「農地死守・実力闘争」を貫きました。
 第1次強制代執行阻止闘争から9月の大木よねさんへのだまし討ちの第2次代執行阻止闘争へと全国の労働者学生市民を結集して闘いました。
 現闘はこの過程、反対同盟農民とともに、闘いの拠点=「砦」を構築し、全国の労働者・学生の宿泊先を各部落の公民館を借りて用意し、野戦病院を設置して救援対策を行うなど文字どおり不眠不休で闘いました。また、北総台地周辺にビラをまいて闘いへの結集を呼びかけ、周辺の農民を組織し、数万の人民の決起を実現しました。
 78年の開港をめぐって、1977年~79年、動労千葉がジェット燃料貨車輸送阻止のストライキに決起しました。
 戸村一作委員長の、「動労千葉は鉄路を武器に、反対同盟は農地を武器に闘う。これが労農連帯である」という「車の両輪」論は、三里塚闘争の勝利が動労千葉と反対同盟農民との連帯、労農同盟にあることを鮮明にしました。
 三里塚闘争50年の闘いの歴史は、権力の反対同盟破壊攻撃との闘いの連続でした。79年の事務局次長・島寛征と当時の大平内閣の加藤紘一官房副長官の秘密交渉、81年の委員長代行・石橋政次、行動隊長・内田寛一らと福田内閣の政府高官との秘密交渉が行われそれが暴露され粉砕されました。83年の「3・8分裂」は、政府・公団と脱落派が、反対同盟を丸ごと条件派化して、三里塚闘争の幕引きを狙った最大の破壊攻撃でした。反対同盟は北原鉱治事務局長、萩原進事務局次長を中心に、この攻撃を打ち破り、「農地死守・実力闘争」「一切の話し合い拒否」の原則を貫く、絶対反対同盟として自らを確立しました。市東東市さんが、「ヤツラ(脱落派)には闘う意志がない」の一言で分裂攻撃を一刀両断にした言葉が今も私の記憶に強く残っています。
 市東孝雄さんが、父東市さんの遺志を継ぎ、農業と闘いを受け継ぐことを全国集会(1999年3月28日)の壇上から宣言した時は、心から感動し三里塚闘争は絶対勝利すると確信しました。
 三里塚闘争は50年間、空港の完成を阻止し勝利し続けています。現闘は反対同盟と共に闘いぬき闘いの土台を支えてきました。今、市東さんの農地死守の闘いは最高裁決戦として闘われています。農地法を使って市東さんの農地を強奪することを絶対に許してはなりません。農地死守の闘いは、第3滑走路建設阻止の闘いとともに、成田空港の軍事使用―軍事空港化を阻止する闘いです。三里塚闘争は、安倍の改憲・戦争攻撃を阻止し、日帝・安倍を打倒する全労働者階級人民の闘いです。朝鮮侵略戦争が切迫する情勢の中で、沖縄をはじめ安倍の戦争政治に対する怒りと闘いが、全国の労働者人民の中に急速に広がっています。動労千葉を先頭とする労働組合の闘いが三里塚闘争の大衆的広がりと闘いの高揚を切り開いています。
 福島と三里塚の農民を中心に、市東さんの農地死守、TPP反対を掲げる全国農民会議の闘いの前進、労働組合を柱に全国各地で進む「市東さんの農地を守る会」の建設をさらに推進しましょう。労農同盟と国際連帯、階級的団結のなかに三里塚闘争の勝利の展望があります。
 私は体をこわして現闘の任務を離れましたが、現闘40年の闘いは私の人生そのものであり、私の誇りです。私は現在、「江戸川産直の会」、「農地を守る会・江戸川」の活動を担っています。、裁判の傍聴闘争にも参加し、反対同盟と一体で闘っています。現闘は新しい指導部の下に強固な団結を確立し、24時間365日、全国の先頭に立って闘いを牽引し、市東さんと萩原さんの営農を支え、生活と闘いを支える日常活動を粘り強く展開しています。現闘の存在と闘いは三里塚闘争勝利の土台です。三里塚闘争50周年の輝かしい地平をさらに発展させて勝利に向けてともに闘いましょう。

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