私と三里塚闘争 50周年記念企画⑥

週刊『三里塚』02頁(0946号01面03)(2016/06/27)


私と三里塚闘争 50周年記念企画⑥

日本農民の名で収用拒む時
 顧問弁護団事務局長 葉山岳夫さん

 市東孝雄さんが完全無農薬有機農業で耕作している農地をめぐる裁判闘争は、正念場をむかえています。成田市天神峰字南台と天神峰の7300平方㍍を違法な千葉県知事の解約許可処分を利用して、空港会社(NAA)は、農地法20条を悪用して、明渡の裁判を起こし、13年7月千葉地裁多見谷裁判長は、粗雑きわまる一方的な裁判を強行しNAAの請求を認めました。控訴審東京高裁小林裁判長は15年6月市東孝雄さんの本人尋問すら拒絶して、一切の人証調べを行わないで市東さんの控訴を棄却しました。
 市東さんは、最高裁に上告し第三小法廷の大谷剛彦裁判長、日置朋弘調査官係で審理されています。最高裁が憲法の番人という看板を掲げている以上、憲法29条(財産権の保障)、31条(適正手続き)違反を犯した農民殺しの高裁小林判決を取り消す判決を出すべきです。市東さんの全耕作面積の41%にのぼる、農民の命である農地の収奪は、違憲、違法な公用収用であり、農民殺しに他なりません。
 NAAは、市東さんの耕作地の所有権を取得した地主だと称していますが小作権者である市東東市さんの同意なく、秘密のうちに地主から底地所有権を取得するという公用収用の基本原則をふみにじる手口で取得した農地の所有権取得は、無効です。耕す者の権利を公然と踏みにじったのです。最高裁は、その他多くの憲法違反に対して、厳正に判断して、違憲、違法な小林判決を取り消すべきであります。もちろん、公正な裁判は、手をこまねいていては実現できません。5万筆の署名と要請行動は裁判闘争勝利のカギです。
 現在、NAAは千葉地裁民事第2部で、偽造した市東東市さん名義の同意書、賃借地境界確認書をふりかざして市東孝雄さんが耕作している南台の畑5700平方㍍について市東さんの耕作権を否定して明渡訴訟をしかけています。市東さんの耕作地の32%の農地です。この裁判闘争は勝利的に闘われています。
 この耕作権裁判では、市東さんの当初の賃借地について、最高裁に係属している高裁判決と相異した正当な賃借地が認定される可能性があります。正確な賃借地と矛盾した、間違った賃借地を前提とする小林高裁判決を最高裁が認めることは許されません。これに関連して、NAAは、千葉地裁に天神峰の農地の上に建てられた反対同盟のやぐらの撤去を請求する訴訟を起こしています。最高裁にかかっている小林判決では、市東孝雄さんにやぐらを撤去せよと判決しましたが、NAAは今度は、反対同盟が撤去せよと裁判を起こしてきました。最高裁がこの矛盾のままで判決を出すことは、許されません。
 市東さんの農地収奪に対する闘いは、巨大な意味をもっています。
 かつて故戸村一作委員長は、反対同盟と車の両輪の関係にある動労千葉が闘った空港へのジェット燃料貨車輸送阻止闘争に関連して、「反対同盟は農地を武器にして、動労千葉は鉄路を武器にして闘う」と労農同盟による闘いの本質を明らかにしました。動労千葉の当時の中野洋書記長も全く同じ考えでした。
 反対同盟の、「三里塚(成田)空港絶対反対、農地死守、一切の話し合い拒否、労・農・学・市民による実力闘争」という基本路線は労農同盟を基軸にしています。
 すぐれた歴史学者羽仁五郎さんは、「三里塚は現代のパリコンミューンだ、反対同盟農民は素晴らしい、動労千葉にもお礼を言いたい、涙がでるほど嬉しい」と賛辞を述べました。故萩原進さんは、オレ流に言えば完全無農薬有機農業の産直運動による、都市の労働者と三里塚農民との結びつきはその一環だと言っていました。
 かつて、71年第一次行政代執行阻止闘争の中で駒井野に農民放送塔が建ち、巨大な垂れ幕には「日本農民の名において収用を拒む」と大書してありました。まさに反対同盟結成50周年にあたり、再びこのスローガンをかかげて闘うべき時がきました。私が反対同盟顧問弁護団事務局長に就任してから50年目に入りました。動労千葉弁護団の団長になってから37年が経ちました。
 数々の闘いがありました。一言では言いつくせません。市東さんの農地収奪を阻止する闘いに参加できるのは、弁護士冥利に尽きます。皆さんとともに全力を尽したいと思います。

未来にむけ勝利の道を
 全国農民会議 鈴木光一郎さん

 福島県中通り地方、田植えも終わり私の住んでいる本宮市は、安達太良山の濃緑色の山肌が美しく眺望できる田園のたたずまいを見せている。
 眼前の裾野を横切る高速道路=東北道を急ぐ車列が騒音をまき垂らしながら南北へと走りすぎていく。この地で1968年初めに反対闘争があり、周辺住民が立ち上がり、実力阻止の闘いが展開されたことなど今では知る由もない。
 東北高速縦貫道は新時代を切り開くとの名の下に、戦争軍事目的を内に隠した地域破壊、農業集落破壊をもたらすものであった。案の定、道路完成後、集落・平井地区では集落が分断され営農は不便をきたし、設置完成に伴ってできた側道は、車量が増大し、事故が多発し、死亡者も出る始末となっている。東北道完成は田畑を分断し集落住民の生活を踏みにじったのである。
 平井地区の住民は今も騒音と不便さの中で、生活営農を続けている。
 68年初頭、ここ福島の地では新しい闘いの胎動が始まっていた。67年学生・山崎博昭氏の死をも賭した10・8の闘い、そして11・12の佐藤訪米阻止闘争を受け、激動へと突進していた情勢下、ここ福島においても学生運動は高揚へと向かいつつあった。
 勇気ある学生を中心に福島大学、福島医科大学の有志は地区反戦会議を結成し、大衆運動を展開し、闘い始めたのです。
 通称、3派と言われた反戦会議は日本共産党・民青との党派闘争を三里塚連帯として勝ちぬき大衆的市民権を得て行った。
 米帝のベトナム侵略戦争に加担し、参戦国化に手を染め始めていた政府自民党は、急速な国策として、運輸交通部門の再編を強行しようとしていた。それは問答無用で、権力的、暴力的に地域住民、市民に襲いかかるものであった。
 全国のあらゆるところで権力と住民・労働者、市民、学生が激突し、大衆化して行った。沖縄で、北富士で、日本原でそして何よりも三里塚で。
 三里塚が、空港絶対反対・実力阻止の原則的闘いを命がけで展開する農民魂に、全国から熱い共感が寄せられた。反戦会議の一員として小生もなんとしても三里塚農民との共闘と連帯をかちとるべく、本宮地区の農民を全日農(全日本農民組合)とともにオルグし、現地闘争の激化する中、68年3・10成田市営グラウンド闘争にバス1台をもって参加、結集をかちとった。
 本宮地権者会長・松本氏が登壇し、反対同盟との連帯を力強く発言したのを昨日のように記憶している。

人民反乱の闘い

 三里塚闘争が人民反乱的な住民闘争への力強い檄たりえたのは、空港絶対反対、実力阻止の原則を貫き、表明し続け、不屈の農民として自己をきたえてきたからにほかなりません。
 2011年、3・11原発禍が世界史的規模をもって始まって、われわれ農民はようやくにして全国農民会議を旗揚げし、闘いを開始しました。
 労農団結連帯を中心環として三里塚に学び、連帯し、ともに闘う魂を共有し、未来に向かって勝利の道を堂々と進みましょう。全国の仲間のみんさんとともに、未来は必ずわれわれとともにあります。

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