私と三里塚闘争 50周年記念企画⑦

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週刊『三里塚』02頁(0947号02面01)(2016/07/11)


私と三里塚闘争 50周年記念企画⑦

戸村委員長の「剣山の小手」
 前進編集局 高田隆志

 私が三里塚の地に初めて足を踏み入れたのは、闘争が始まって1年余、1967年9月1日だった。秋山勝行全学連委員長が戸村一作委員長を初訪問したのに、『前進』編集局員として同行したのだ。

小川明治さんと

 その春、2月から7月にかけて、前年に再建されたばかりの全学連を中心に砂川基地拡張反対闘争が闘われた。50年代の砂川闘争に続く第2次砂川闘争である。その指導者である宮岡政雄砂川基地拡張反対同盟副行動隊長が、全学連の不屈の戦闘性を高く評価し、三里塚と全学連の橋渡しの労を取って下さったのだ。
 その日午後、三里塚十字路近くの戸村委員長宅を訪れた。小川明治副委員長が迎えてくれ、縁側で三里塚闘争について語ってくれた。戦後の開拓の苦労話から空港公団の理不尽まで熱く語っていただいた。
 その夜は駒井野(A滑走路北端にあたる空港敷地内)の団結小屋で「金曜集会」(週1の反対同盟集会)があり、戸村さん運転の車で向かった。全学連委員長を連れて行くことは、戸村さんとしてひとつの覚悟を示したものだったと思う。秋山委員長のあいさつに共産党が強く反発した。
 その後、全学連との共闘に反対する策動が強まった揚げ句、ついに共産党は戸村委員長に対する個人攻撃、デマ宣伝に訴えたため、反対同盟はその年の暮れには共産党との絶縁を宣言し、追放した。
 この年の9月から12月の党派闘争が、その後の三里塚闘争の方向を決したと思う。
 戸村委員長は、その年の10・8羽田弁天橋での、佐藤首相ベトナム訪問阻止の闘いにおける京大生・山崎博昭君の死を天啓のように受けとめ、戦闘性を発揮していったが、彼の戦闘性は三里塚闘争の前史である富里空港反対闘争以来ではないかと思う。というのも、駒井野集会のあと、戸村さん宅に泊めていただいた翌朝、食事の際に、彫刻家でもある彼が、「デモ用の小手(こて)を作ろうと思うのだが、剣山のように針が埋まった小手を上着の下に着けていれば、機動隊に腕をつかまれた時に突き刺すことができる」と、こともなげに言ったのだ。
 まだ、三里塚での本格的な実力闘争が始まる前、すでに戸村さんは国家権力との非妥協の対決を当然のように考え、決意を固めていたのだ。その後の三里塚闘争は、そんなレベルではないすさまじい実力闘争を重ねていくのだが。
 戸村さんは、権力を憎み、共産党を憎み、反革命カクマルを憎んで、動労千葉との労農連帯に勝利の展望を見出していった。
 それから半世紀、三里塚反対同盟は絶対反対同盟として日本の階級闘争に屹立(きつりつ)している。初心を忘れず、節を曲げずに闘いを貫くことが、結局すべての労働者階級人民の心をつかみ、勝利を切り開く。
 三里塚闘争50年は、勝利に向かっての一歩一歩を積み上げてきた。その不滅性は、これからの決戦の中でこそ発揮される。ともに歩み続け、闘えることが私の喜びである。

三里塚産直運動の出発
 杉並産直の会事務局 飯塚淳

(写真 浜田山での青空市【89年10月】)

 三里塚闘争50年の闘いの中で、83年後半、「3・8分裂」は歴史的な破壊攻撃でした。反対同盟は北原事務局長・萩原進さんを先頭にこの攻撃を打ち破り「いっさいの話し合い拒否・農地死守・実力闘争」の原則を貫く、「絶対反対同盟」として再出発しました。
 三里塚産直運動は、この反対同盟破壊攻撃との激突のさなかに開始されました。
 1982年10月現地全国集会で「この運動を通して菱田の部落の根本的改革を行い、これを基礎として敷地内の人々との連帯を強化する。①産直販売運動を通して、農民とより広範な大衆運動との強い連帯を獲得したい ②直販運動を通して、矛盾にみちた流通機構と対決していきたい」という「野菜の産直運動への訴え」を受け「正月野菜の産直運動」「野菜の直販運動」という形で開始されました。
 77年〜79年ジェット燃料貨車輸送阻止のストライキを闘い抜いた動労千葉を軸とした労農連帯・労農同盟の発展。その上に産直運動を通して運動のさらなる広がりを実現するものとして、各地の仲間は職場や地域で「産直センター」を組織し、現闘同志の不眠不休の闘いと一体で、三里塚野菜の産直運動を実現していきました。そして成田用水攻撃を迎え撃ちながら、83年7月「三里塚有機農法産直の会」の産直野菜定期配送を開始し31年間闘いぬきました。
 85年二期着工攻撃を前に、東峰・天神峰の敷地内反対同盟は萩原進さん市東東市さんらを中心に84年7月から無農薬有機野菜の「産直取り組み」を開始し、88年10月から「三里塚産直の会」としてケース野菜の定期配送を開始しました。それから28年を迎えます。
 83〜84年ころ、私は杉並からのドライバーとして天神峰現闘本部での産直開始の打ち合わせに同席する機会がありました。萩原進さんが当時の天神峰の青年たちを必死でオルグしていました。二期攻撃を迎え撃つ進さんの気迫を感じた思い出があります。団結街道の現闘本部周辺には農家が立ち並んでいました。
 杉並では、82年末の三里塚産直運動の開始から、「杉並共同購入の会」として産直を担ってきました。「青空市」や現地への「畑見学」「芋ほり」「援農」等を組織し、地域の労働者・住民の「食の安全」を脅かす諸攻撃への怒りと結びついて、反対同盟農家の闘いに心を寄せる住民と一体となって、三里塚無農薬有機野菜の産直運動をつくってきました。それは子どもたちの健康や日々の食生活の安全・政治反動との闘いをかちとっていく消費者の思いが、三里塚で闘う生産者との直接の関係という形で心をひとつにしてつくってゆく運動でした。この闘いは、三里塚の闘いを根底から支える一翼になってきたと確信しています。同時に地域での運動の基礎ともなってきました。全国の闘う人々とともにある運動・権力と闘う産直だと思います。
 反対同盟農家は国策としての空港建設・農業破壊・農地強奪に対して数々の試練を乗り越え屈すること なく闘い抜いてきました。

消費者は労働者

 市東さんの農地を守る闘いは、労働者人民の闘いの生命線を守り抜いてきた三里塚闘争のまさに正念場です。労働者にとって、命と希望を支えて来た農地です。
 3・11情勢の中 数々の攻撃を迎え撃って闘っています。3・11福島第1原発事故と大量の放射能汚染は、こうした生産農家や消費者、労農連帯で闘ってきた労働者の努力や闘いを根底から破壊するものでした。三里塚産直農家は、行政に「放射能汚染検査」を実力で行わせ、生産物を出荷する闘いを日々行っています。
 「われの産直野菜は商品じゃないんだよ。農民と消費者=労働者が連帯、共同するための橋渡しとでもいったらいいかな。」(萩原進さん)
 農業破壊・農民殺しの政策がまかり通っています。原発事故と今なお原発を推進するものたちへの怒りを燃やし「すべての原発いますぐなくせ」の運動を三里塚生産者農家と一体で進めていきます。
 市東さんの農地を守り抜き、市東さん・萩原さんと団結した産直運動をこれからも進めていきたいと思います。

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