大地と共に 三里塚現闘員が語る 沖縄に生まれ育ち(上) 権力と闘わぬカクマルを弾劾 沖縄戦後史が「反戦」の原点に

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週刊『三里塚』02頁(1040号02面01)(2020/05/25)


大地と共に
 三里塚現闘員が語る
 沖縄に生まれ育ち(上)
 権力と闘わぬカクマルを弾劾
 沖縄戦後史が「反戦」の原点に

(写真 嘉手納基地に向け抗議行動【1969年2月4日】)

 1946年4月5日に沖縄の名護の東江(あがりえ)に生まれました。同じ年の4月27日が星野文昭同志の誕生日。同じ4月生まれでは、1870年4月22日のレーニンがいます。
 親父はもともとは漁師でサバニという小さい船を持っていました。おふくろの実家がかまぼこ屋で、親父も漁師をやめて、一緒にやっていました。かまぼこの材料は、地元の小さい魚ではなくて、すけそうだら。北海道から那覇の市場を通して名護まで来る。
 僕は7人兄弟の末っ子。おふくろが42歳のときの子どもです。長女の子どもが僕よりも年上。教育一家で兄弟はみんな教員だったり関係者。自分はそういうのは嫌いでね。アウトローに生きたいと思っていた。級長をずっとやらされていて、6年生の時に持ち上げられて生徒会長に推薦されたけど拒否しました。
 その後、20人くらいで連れ立って映画館に忍び込んで、映画の盗み見がばれて、校長室で立たされました。
 そんな悪いことも結構やったけど、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下で』を読んだんです。苦悩する主人公と自分を重ねて人のために自分も何ができるかなと考えた。それで人民のための下敷きになろうと思ったんです。
 なりたい職業とかは特になかったけど、船乗りとか実家のような小さな経営者ならいいかなと思ったり。だけど僕は部長なんかの役職とか規則は好きじゃないんだよね。その後の人生で出会った「規則を守れ」とがみがみ言ってきた人は、たいてい規則を破り、とんでもなく不正義なことをやっていた。そういうのは絶対に許せないんです。
 その後、東江小学校を卒業し、名護中学校、名護高校を経て琉球大学に進学します。特段やりたいこともなかったんだけど、まだ復帰前でだいたい成績で大学を割り当てられたんです。
 当時は髪を胸まで伸ばしていてね。ヒッピーですよ。図書館に行ったら10㍍くらい僕の近くに誰も座らない。だけど3年の時に大学教師から言われて丸坊主にし、丸坊主を通しています。

那覇10万人集会

 大学では2年間は6人部屋の学生寮に入らないといけなかった。自分は政治闘争をやろうとは思っていなかったんですよ。カクマルしかいないからね。小学校から一緒だったやつはカクマルになったんだけど。学習会を終えたカクマルが、ヘーゲルの本を食堂のテーブルにばんと置いたりしてね。そういう偉そうな態度が嫌いだった。
 66年に首里劇場でやったカクマルの政治集会に一度顔を出したら黒田寛一のテープを流していた。黒田の崇拝運動だなと思った。政治思想的には米帝への従属論だね。日本政府が独自の判断で沖縄を踏み台にして生き延びようとしたことがなかった。黒田の『社会観の探求』とかも読んだが、カクマルには日帝と闘うという路線はない。沖縄でも警察と渡り合うということはなかった。 67年の11月2日に復帰協の主催で県民大会が開かれて那覇の与儀公園に10万人が集まります。当時、琉球大生が2千人くらい集まった。多くの一般学生が参加しました。僕もカクマルの後ろについていった。カクマルは県民大会のコースとはあえて別のコースをとって交番の周りをデモしたんだね。3回くらい回っていると。機動隊が3人くらいしかいないんだけど「わっ」と出てきた。そしたら、カクマルの先頭の部隊が逃げるんだよね。何だよ、だらしないなと思いました。
 68年の11月にB52が嘉手納基地で離陸直後に墜落、炎上事故を起こすと、翌年2月に県民大会が開かれ4〜5万人が集ります。そのときも琉大生2千人で県民大会のまわりを「われわれは闘うぞ」とぐるぐるデモする。機動隊がこっちに向かってきたらカクマルはやっぱり逃げちゃう。僕は「阻止戦を張ろう」と叫ぶんだけどダメだった。カクマルの指導部に「あんたがたの態度は何だ!」と言ったんだよ。権力と闘う思想はこれっぽっちもない。それでカクマルはどうしようもないなと確信した。

米軍支配の現実

 僕の闘いの原点を知ってもらうには、戦後の沖縄の歴史を振り返った方がいいと思う。沖縄戦で県民の4人に1人が殺され、米軍に占領された。捕虜収容所に入れられ食事も配給というところから戦後が始まった。まもなく朝鮮戦争が起きる。そうすると鉄くずなんかのスクラップが高値で売れる。薬きょうもいっぱい落ちてるし、火薬も流れてくる。それで花火を作ったりもしたけど、自分は小さい頃スクラップを小遣い稼ぎで拾っていたんです。それが結局は、朝鮮戦争に加担していたのかという苦い思いが心の中にあって。それが自分の反戦の原点かなと思う。
 55年7月には、伊江島の住民が家と土地を取られたことに抗議して、「乞食(こじき)行進」と言って那覇の琉球政府前から100㌔くらい行進して全島に訴える。それがその後の島ぐるみ闘争に火を付けます。同じ55年には由美子ちゃん事件(嘉手納幼女強姦殺人事件)もあった。
 59年には宮森小学校に米軍の戦闘機が墜落する。僕が中学2年の時です。石川市(当時)に米軍の司令部があるんで、がたがたの砂利道を辺野古から石川まで自転車で行ったんです。沖縄の人はみんな集まれ。石川にみんなで行こうって叫びながら。65年には読谷村で米軍のトレーラーが落ちて少女が即死する。
 そういう非常に悔しい思いをずっと持っていて、後々に自分の闘いになっていったんだと思います。
岸本豊和
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