小泉よねさん宅への強制代執行から50年 国家暴力による人命無視の破壊行為 市東さんへの強制執行阻止を

週刊『三里塚』02頁(1073号02面01)(2021/10/11)


小泉よねさん宅への強制代執行から50年
 国家暴力による人命無視の破壊行為
 市東さんへの強制執行阻止を

(写真 71年8月、取香の自宅前で笑顔のよね)

(写真 9月20日、機動隊の暴力と闘うよね)


 1971年9月20日、小泉(大木)よねさん宅に対する第2次強制代執行・農地強奪から50年を迎えた。国家・空港公団(当時)による初めての民家に対する強制代執行であり農地強奪が強行された年だった。この問答無用の強制代執行に対しては、反対同盟を先頭にした全国の労働者人民の決起による激しい実力阻止闘争が闘いぬかれた。以来50年、話し合い路線による切り崩し・総条件派化攻撃―闘争終息策動(1983年3・8分裂攻撃)を、反対同盟は不屈・非妥協の実力阻止闘争によって粉砕してきた。伝家の宝刀と言われた「土地収用法」を破綻に追い込み、成田空港建設のための事業認定を期限切れで失効させるに至った。収用委員会を解体に追い込み、空港建設にはもはや強制収用は適用できない事態へと追いつめた。反対同盟は71年以来今日まで半世紀にわたって強制収用を敢然と阻み続けている。
 この71年の第1次〜第2次強制代執行阻止闘争では、全国から広範な労働者人民がかけつけた。星野文昭同志をはじめ千人余が逮捕され数千人が負傷する激烈な大闘争として闘われた。9月16日には、駒井野・天浪砦死守戦、東峰十字路戦闘や三里塚・大清水戦闘など機動隊せん滅の大戦闘を貫徹した。
 今年9月17日付千葉日報は、「成田 東峰十字路事件半世紀」の特集記事で元県警警察官を登場させ、「農地を守ろうとした農家と過激派を同一視したことはなかった」「革命を起こそうという人と、土地を守りたかった農家の考えは違った」などと大うそを語らせ、空港建設における一貫した国家暴力の発動を居直っている。「機動隊空港」(戸村委員長)と言うように、成田空港は機動隊の暴力によって造られたものだ。これを端的に示すのが、小泉よねさんへの代執行だ。

だまし討ち急襲

 71年8月、差し迫る代執行を前によねさんは「戦闘宣言」(別掲)を発し、看板にして自宅前に建て、攻撃を迎え撃つ気概を表した。
 9月20日朝、「本日の強制代執行は行わない、延期する」と空港公団(当時)は記者会見まで開いて発表した。結集していた数千人の支援部隊は援農に入った人を残して現地から引き揚げた。しかし昼になって突然、よねさん宅を急襲して代執行を強行したのである。完全なだまし討ちであった。現地に残っていた部隊が急遽駆け付けた時には、よねさん宅は機動隊によって二重三重に取り囲まれていた。よねさんは毅然として脱穀作業を続けた。だが機動隊員らは、作業中のよねさんに襲いかかり、凄惨な暴行を加え前歯2本を折る重傷を負わせたうえ、顔じゅう血まみれになったよねさんを機動隊の壁の外に放り出したのである。駆けつけた北原鉱治事務局長らによってよねさんは救出されたが、家は跡形もなくがれきのようにずたずたに破壊された。
 まさに代執行とは名ばかりの人命をも無視した暴力むき出しの破壊行為そのものであった。この日、再度駆け付けた部隊は、激しい怒りに燃えて機動隊の壁を粉砕して深夜まで闘いぬいた。

労農学の力集め

 その後、よねさんは反対同盟で東峰部落の島村さんの畑の一角を借りて家を建てて東峰部落の人と一緒に暮らすことになったが、健康を損ねて73年に亡くなった。
 よねさんは、機動隊の暴力にも屈せず農地死守を貫いて国家・千葉県の強制代執行攻撃と不屈・非妥協に闘い抜いた人であった。これは小泉よね魂とも言われ、脈々と受け継がれている。
 三里塚闘争は今、市東孝雄さんへの強制執行攻撃との重大な決戦に突入している。今こそ全国の労農学の力を結集して強制執行阻止決戦に勝利しよう。追い詰められたNAAは、住民に謝罪して「2度と強制的手段はとらない」と社会的に公言した。にもかかわらず今再びその約束をほごにして市東さんに対して強制執行を行おうとしている。絶対に許してはならない。(三里塚野戦病院・大熊寿年)

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戦闘宣言

71年8月31日 原文はかな

 皆様、今度はおらが地所と家がかかるので、おらは一生懸命がんばります。
 公団や政府の犬が来たら、おらは墓場とともにブルドーザーの下になってでも、クソ袋とみのさんが残していった刀で闘います。
 この前、北富士の人たちはたった20人でたいまつとガソリンぶっかけて闘っただから、ここでがんばれねえってことはない。
 ここでがんばらにゃ、飛行機が飛んじゃってしまうだから。
 おら、7つのときに子守に出されて、何やるったって無我夢中だった。面白いこと、朗らかに暮らしたってのはなかったね。だから闘争がいちばん楽しかっただ。
 もう、おらの身はおらの身のようであって、おらの身でねえだから、おら、反対同盟さ、身預けてあるだから、6年間も、同盟や支援の人たちと、反対闘争やってきただから、誰が何と言っても、こぎつけるまでがんばります。
 皆さんも、一緒に最後まで闘いぬきましょう。

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