4・25耕作権裁判&デモへ 労農連帯の力で戦争止めよう 今に生きる「ジェット闘争」の教訓

週刊『三里塚』02頁(1084号01面01)(2022/03/28)


4・25耕作権裁判&デモへ
 労農連帯の力で戦争止めよう
 今に生きる「ジェット闘争」の教訓

(写真 反対同盟ニュース100号達成を記念しやぐら前でガッツポーズ【3月20日】)

(写真 ジェット燃料を輸送する貨車に軍事空港粉砕のスローガン)

(写真 動労定期委員会に乗り込み千葉地本への処分策動に抗議する北原さんと戸村さん)


 ロシアによるウクライナ侵攻をきっかけに世界戦争・核戦争の危機が現実化している。反帝国主義・反スターリン主義・世界革命によって新自由主義・資本主義を終わらせなければ人類の未来はない。全世界の反戦闘争と連帯し、改憲・戦争に突き進む岸田政権打倒の内乱的な闘いを職場・学園・街頭で巻き起こそう。今号では戦時体制下という歴史的転換期にさしかかっている労働運動・農民運動・学生運動の前進を勝ち取るために、あらためて動労千葉のジェット燃料貨車輸送阻止闘争の教訓を明らかにしたい。
 三里塚闘争が始まった当初から、家族や親戚に反対同盟員が多かった動労千葉地本は闘いを支援してきた。
 1978年の一期工区の空港開港に向けたジェット燃料用輸送パイプラインの完成が遅れ、国鉄の貨車によってジェット燃料を暫定輸送する政府の方針が出された。
 当時、千葉県下の貨物の運転士は全員動労千葉の組合員。支援という立場から自らの問題として燃料輸送の問題が突きつけられた。千葉地本として労農連帯の正しい路線を貫徹しようと76年12月の動労中央委員会で「ジェット燃料貨車輸送反対」の緊急動議を出し、満場一致で決定された。

「拒否から阻止へ」の転換

 動労千葉は、全組合員が処分(公労法で闘えば必ず処分が出る)覚悟で、組合としての実力闘争を具体的にいかに展開できるかを考え悩みぬき4つの視点を確立した。
 一つは、国家と血を流し闘う三里塚農民との労農連帯を貫く。二つめは、「危ないものは運ばない」運転保安確立。三つ目は、業務量は増加するのに要員は増やさないという合理化反対。四つ目は、労働組合への組織破壊攻撃を許さない。
 半年をかけて全組合員との討論を組織した。
 具体的な闘いの始まりは暫定貨車輸送のゴーサインが出た77年11月。動労千葉は、12月冒頭から列車をゆっくり走らせるなどの順法闘争を展開し、ダイヤをガタガタにした。
 瀬戸山法務大臣は「刑事罰の適用を」と発言、朝日新聞は社説で「やりすぎ」論を掲載、動労本部カクマルの妨害などのさまざまな反動があったが、闘争戦術を駆使し、政府・警察権力の弾圧を許さなかった。共感はより広がり支援共闘会議も結成された。
 動労千葉の「ハンドルを握らない」という闘いに追いつめられた当局は、機関士を経験した職制を全国からかき集めて運転させ輸送を続けた。
 この新たな攻撃に、執行部先頭に「鉄路をやつらに渡していいのか。ハンドルを握らなくてよかったというレベルでいいのか」と徹底討論し、「輸送拒否から阻止へ」というスローガンを新たに打ち出した。鉄路のヘゲモニーをわれわれの手に握って、闘いを継続・発展させようとしたのだ。執行部は時間をかけ全組合員が納得、理解するまで徹底討論。78年4月の臨時大会で「拒否から阻止へ」の新たな闘いへと突入した。
 そこで襲いかかったのが、動労本部カクマルだ。7月の定期全国大会への執行部原案を『動力車新聞』に発表し、突如「反対同盟との共闘に一線を画す」と宣言。三里塚闘争への誹謗中傷を並べ立て、実質的な「絶縁声明」を出したのだ。
 反対同盟は声明を出し、動労組合員に共闘の堅持を呼びかけた。だが大会で本部は四十数%の代議員の反対を押し切って議案の採決を強行。78年11月、定期中央委員会で動労千葉に対する査問委員会が設置された。

戦争やめさせるまで継続

 ここで反対同盟は、戸村一作委員長、北原鉱治事務局長を先頭に総決起し、中央委員会が開かれる東京の会場におしかけ座り込んだ。動労本部カクマル城石らに対し、戸村委員長は「動労千葉を査問委員会にかけるなど本末転倒だ」と城石の胸を激しく突き飛ばし、婦人行動隊もみな口々に弾劾した。
 動労本部が三里塚闘争への参加を理由に千葉地本の全執行部を除名処分にしたのを契機に、動労千葉は79年3月31日に分離・独立。同年10月にジェット闘争に再び突入。その後も指名ストライキを組み入れながら81年3月の2週間にわたる闘いに入っていった。
 動労千葉の中野洋顧問はジェット闘争を以下のように総括している。「こういう闘争は一部の意識的な労働者だけでやれる闘争ではない。だから労働組合全体としてどう闘っていくのかが重要。戦争協力拒否の闘いでは、各産別でいろいろな形で問われるが機関全体を掌握し、全体の大衆的な闘いとして、創意工夫をこらした闘いを展開する構造を作りだしていくことが決定的だ。ハンドルを握っているけど、いざとなった決定的瞬間にはストライキをして列車を止めるという闘い方だ」「一つ一つの成果にまどわされることなく、終極は戦争をやめさせることだから、そのための闘いを積み団結を固め重ねながら、継続させていくことが重要」
 そして、81年3月のストライキはその「いざとなった」時だった。政府は閣議で決めた3年間の期限付き暫定貨車輸送の延長をやろうとした。独立し、スト指令権を持つ動労千葉は、千葉県下の全列車を止めるという戦術的に一段とエスカレートさせたストを打った。国労の労働者も決起し、成田の本線に燃料列車がたまり動かなくなった。
 この闘争を闘いぬいた最大の力は、ほぼすべての組合員が三里塚闘争に参加し反対同盟農民との親密な人間関係を築いていたこと。反合理化・運転保安闘争の中で労働組合の誇りを培い「銭金に関係ない闘争もやる」が全組合員のものとなったことにある。現場組合員をとことん信頼し依拠する中で反戦政治闘争の金字塔とも言うべきジェット闘争は勝ち取られた。
 戦時下の今こそこの精神を甦らせ、改憲と中国侵略戦争へ突き進む岸田政権を打倒しよう。

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