2・19耕作権裁判傍聴を 証言に立つ現闘同志の訴え 南台農地決戦命がけで闘う

週刊『三里塚』02頁(1129号01面01)(2024/02/12)


2・19耕作権裁判傍聴を
 証言に立つ現闘同志の訴え
 南台農地決戦命がけで闘う

(写真 喜寿を迎えた市東東市さん【91年】)

(写真 A滑走路南側に建つ岩山大鉄塔)


 アメリカ帝国主義と一体となって中国侵略戦争へと突き進む岸田政権を今こそ打倒しよう。ウクライナ開戦2周年2・24新宿反戦デモに集まろう! 反戦闘争の先頭で闘い続ける三里塚芝山連合空港反対同盟との血盟にかけ、帝国主義打倒の内乱の砦(とりで)=三里塚闘争の勝利を!市東さんの農地を守る耕作権裁判が最大の山場を迎えている。2月19日の耕作権裁判で証言に立つ三里塚現地闘争本部の仲間2人からアピールをいただいた。

東市さんに思想問われ
 岸本豊和さん

 裁判所は、「同意書」「境界確認書」では、耕作位置の特定はできないと言いました。であるなら、この偽造書類を使ってNAA(成田空港会社)が提訴すること自体が、不正、不法なことであり、絶対に認められないと言いたいです。
 僕は77年から三里塚に常駐するようになり、天神峰・東峰の農家を中心に援農に入っていました。その頃の畑の状況と、市東東市さんの人柄について証言します。
 東市さんは「前進」をろくに読んでいなかった僕の胸ぐらをつかんで怒ったことがあります。「仕事ができて、まじめにやっていても、それだけではダメだ。もっと勉強して三里塚でどう生きるのか考えろ。闘いの思想を持て」ということだったと思います。
 東市さんが信頼していた石橋政次反対同盟副委員長が政府高官と秘密交渉したことが81年に発覚する中で、東市さん自身が戸村一作委員長の精神の継承者として自己を打ち立て、革命的祖国敗北主義についても語るようになりました。北原鉱治事務局長もそうでしたが、東市さんも第2次大戦の反省がすさまじくありました。その反戦の思いから「空港公団と反対同盟は水と油。話をすることは何もない」と立ち上がったんです。
 84年8月に家を新築したときには屋根に上って、「代執行来るなら来い、受けて立つ」と宣言。同年9月には、成田用水工事阻止のために、現地支援と共に朝4時に出発して国鉄専用道路の入り口を封鎖しようと闘いました。その際、田んぼの中で機動隊との乱闘になり、目の前で東市さんが盾で殴られているのを見て、僕は機動隊に飛びかかり、血だらけの東市さんと一緒に逮捕されました。東市さんは、「公団、機動隊とどこまでも闘う。そんなのに負けるような自分ではない」と食事の時などでもよく語っていました。
 戦後、圧倒的な軍事力で世界を支配してきたアメリカ帝国主義の没落が一切の動因となって、ヨーロッパでも中東でも戦火が上がり、アジアにおいても米帝は中国侵略戦争を構えています。
 アメリカが日本を守ることなど絶対にありません。僕は沖縄の名護出身ですが、日米両政府は、沖縄人民をみな殺しにすうような戦争をやろうとしています。日本の労働者階級の闘いが決定的です。闘うアジア人民と連帯し、革命的内乱をもって日本支配階級を打倒することは、アジア革命への展望を開きます。三里塚は歴史的事実としても革命につながる団結を生み出してきた拠点です。
 南台農地決戦では、逮捕覚悟とかそういう次元を超えて、星野文昭さん、大坂正明さんのように文字通り命をかけて闘うつもりです。
(本紙1040〜41号の岸本さんの「大地と共に」もご覧ください)

間近で見た不動の決意
 横井文美さん

 岩山鉄塔決戦で三里塚に来てから半世紀近く現地で活動しています。
 次回の裁判で証言することになりましたが、そもそもなぜ市東孝雄さんがNAAから訴えられなければならないのか。本当に理不尽な裁判だと思います。小作者である市東さんの意志が揺るがなければ、地主がどうであれ公団は畑を奪うことはできないというのが農地法の大前提です。そのことを踏まえて、故萩原進さん(事務局次長)が、孝雄さんに「天神峰に帰ってきて一緒に産直をやろう」と誘ったんです。
 NAAは実力闘争を経験していない孝雄さんのことを脅せば、何とかなると思っていたのでしょう。だから耕作場所をきちんと調べもせずに裁判を起こしたんです。「こんないいかげんなやり方で、しかも『不法耕作者』呼ばわりされて、農地を奪われてなるものか」という孝雄さんの怒りに火をつけたのはNAAの側です。
 NAAは唯一の「証拠」として出してきている「同意書」「境界確認書」にある耕作場所が正しいと言い張るために、「市東東市さんが買収を困難にするためにわざと違う場所を元永さんの聞き取りで言った」などと言い出しています。市東さんはそんな小細工をする人ではないということを、お連れ合いのときさんの介護をするなど一番身近にいた人間の一人として証言します。
 反対同盟の幹部や中心人物が切り崩されて脱落していく80年代の激しい攻防の中で、市東東市さんは母屋を新築し、病気のお連れ合いを病院から引き取ってここで生きる道を選択しました。孝雄さんは、70年代の実力闘争に直接参加していなくとも、そういうおやじさんの生き方を見て、後を継ぐことを決めて帰ってきました。職人として安定した収入を得ていたにもかかわらず、農業に転身するのは大きな決断だったと思います。NAAはその決意を完全に見誤っていたと思います。
 三里塚の裁判は、傍聴者が法廷に入る前から裁判長が座っています。なぜなら、裁判長入廷の際に、「起立」と書記官が言っても誰も立たないからなんですね。
 NAAの代理人は裁判所にすべてお任せでほとんど口を開くことがなかったのですが、証人調べに入ってから、反対尋問に立つようになりました。法律的な知識がなくても法廷ドラマを見ているかのような、ある意味では面白い裁判になっています。どちらが正しいのか一目瞭然。ぜひ傍聴に駆けつけてください。

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