南台農地守るため全力決起を NAAの文書偽造明白に 次回3・18は市東さん本人尋問 耕作権裁判証人尋問

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週刊『三里塚』02頁(1130号01面01)(2024/02/26)


南台農地守るため全力決起を
 NAAの文書偽造明白に
 次回3・18は市東さん本人尋問
 耕作権裁判証人尋問

(写真 反対同盟を先頭に意気高く千葉地裁に肉薄するデモ【2月19日】)

(写真 南台関係土地図)

(写真 成田用水決戦で阻止線を張って実力闘争に立ち、機動隊から暴行を受け、流血の中で逮捕される市東東市さん【84年9月27日】)

 岸田政権は国連パレスチナ難民救済事業機関への資金拠出を停止し、イスラエルのジェノサイドに加担し、日ウクライナ経済復興推進会議で巨額の追加支援を決定するなど、参戦国化の道をひた走っている。労働者人民への戦争動員攻撃が本格化する中で、「反戦の砦(とりで)」として軍事空港建設を実力で阻み続ける三里塚闘争が持つ位置は決定的だ。2・28機能強化工事粉砕の現地調査&第3滑走路予定地内デモに集まろう。成田市天神峰の市東孝雄さんの農地をめぐる耕作権裁判が2月19日、千葉地裁民事第2部(齊藤顕裁判長)で開かれ、3人の証人尋問が行われた。三里塚芝山連合空港反対同盟と支援約100人は一日の行動を全力で闘った。
 正午、千葉市中央公園で太郎良陽一さんの司会で決起集会が開かれた。
 反対同盟事務局を代表して東峰の萩原富夫さんが発言に立った。
 「成田空港機能強化の準備工事が今進められているが、これに対し2月28日に芝山町菱田をデモする現地闘争を行う。自民党・岸田政権の戦争政策の一環として成田空港を戦争のできる空港へと造り変えることが、機能強化の狙いだ。諸先輩方の命がけの闘いの歴史を継いで、市東さんの南台農地を守り、第3滑走路建設を許さず、軍事空港を粉砕する」
 続いて動労千葉の中村仁副委員長などが連帯発言を行った。意気高くシュプレヒコールを上げ、強風と降り出した雨を突いて市内デモに出発。「農地強奪阻止、戦争反対、自民党裏金問題弾劾、ガザ虐殺許すな」の声が一帯に響いた。
 午後1時45分、60超の傍聴席を埋めて開廷。
 逃亡を決め込んでいた法理哲二元空港公団職員が法廷に引きずり出された。
 原告・成田空港会社(NAA)代理人、上野至の主尋問に答え、法理は、1985年から91年に空港公団用地部職員として土地の買収にいそしんでいたことを述べた。冒頭から用地交渉について「タテのラインでやっていた」とし、課長代理だった自分はただ上司の課長に報告するだけだったなどと強調する。そして、自分は天神峰の石橋政次氏(元反対同盟副委員長)の家屋敷についてのみの担当で小作地の関係についてはまったく関与していないという。

無関係装う法理証人を追及

(写真 元空港公団・法理哲二)

 主尋問はあっさりと終了し、弁護団が反対尋問に立った。当時の買収の具体的態様や実情を述べさせた。
 法理は、石橋に直接連絡を取っていたのは自分だけだとし、反対同盟破壊・切り崩しの大罪を犯していることを十分に自覚しながら、石橋と会うときは自宅には訪れず、畑の一角などの人目につかない場所で密会し、買収・移転の交渉を進めていたという。84年の売買契約の時には立ち会った。移転先の石橋家にも訪れ、何かと世話を焼いたが、小作地の場所や耕作の現況などについての話などは一切していない、担当は私じゃない、と白を切った。
 また、石橋に関連する一坪共有地の買収についても、用地部内の別の部署「特別用地対策室」が担当したと言い、さらに石橋家の敷地内に建っていた現地闘争本部の土地の分筆についても「知らない」と言い張った。
 そして小作地の地主である藤﨑を担当していたのは故・上西亮治だったとして、底地の買収や小作権の解除について自分は一切かかわっていないことを強調した。藤﨑の家に行ったのは、2000年代に入ってから出向先の鉄道会社の別用でと述べた。
 この裁判において重要争点の、市東東市さん(孝雄さんの父)が耕作地の位置を地主・藤﨑と確認し合い署名捺印したとする「同意書」「境界確認書」について、「私なら報告書を作成した」と言いつつ、「ほかの人の報告書などは見ていないし、わからない」とうそぶき、証言を終えた。

よみがえる東市さんの闘魂

(写真 横井文美さん)

 2人目の証人は、横井文美さん。支援として三里塚現地に常駐しながら身近に接していた市東東市さんの人となりを証言した。横井さんは開港目前といわれた76年に岩山大鉄塔を守る呼びかけに応え、大学から三里塚闘争支援に駆け付け、そのまま現地に残った。敷地内の天神峰・東峰の反対同盟農家に頻繁に援農に入っていた。
 石橋家の耕作地は関係土地図のA、E、Fだった。石橋家の屋敷の土地とE1にまたがって屋敷林が存在し、それに続いて低木が植わっていた。
 石橋家が87年に移転してから、E1を耕した者はいない。
 横井さんは昨年秋に二度、石橋政次氏の遺族である4人を訪ね会話をした。そこで政次氏の長女から、低木が伽羅(きゃら)であることを教えられた。伽羅は上に向かって伸びず、横に広がり、垣根などに適している。
 また次男からは、彼が71年9・16東峰十字路事件の事後弾圧で同年の12月初旬に逮捕され、クリスマス頃に釈放され出てきた時に、Aを石橋家が耕作しているのを見て驚いた旨の証言を得た。(Aはもともとの市東家の賃借地だが、石橋家の申し出でCと交換し耕作した。)
 87年に石橋家が転居したのち、E、Fは荒地となり現在にいたる。
 弁護団の質問は、東市さんの連れ合いのときさんの介護に向けられた。
 84年にときさんは脳梗塞で倒れた。同年の市東家の母屋の新築は、この地で農業を続け闘うという東市さんの意志であり、またときさんとともに新しい家に住むという思いが込められていた。当初病院に入院していたときさんは、東市さんの強い希望で89年に退院して天神峰に帰宅し、横井さんをはじめ現地支援は交代での24時間介護態勢をつくった。89年には無農薬産直農業を始めるために、作業場を新築。
 横井さんは、間近で接した東市さんを語った。「東市さんは、石橋副委員長ら反対運動をやめて出ていく人たちを目の当たりにしながら、彼らとは別の生き方をすると決め、連れ合いとともに反対運動を闘い抜く道を自信に満ちて進んでいた。NAAは、88年4月に東市さんが同意書、確認書に署名捺印したと言うが、一番輝いている生き方をしていたその時期に、事実と異なる内容に署名することなどありえない。また東市さんは小細工とはおよそ無縁な人柄であり、『同意書、境界確認書でE1が当初からの耕作地であったことを確認したのに、後になってそれを否定するために元永メモを作らせた』などというNAAの推測は成り立たない」
 三番目の証人は千葉盛克さん。85~96年に三里塚現地に常駐していた。

こんな書類に署名しない!

(写真 千葉盛克さん)

84年の成田用水着工に反対して反対同盟が阻止線を張り、機動隊の暴行を受けながら5人の同盟員が逮捕された。額から血を流して逮捕される東市さんの報道写真と、その後の東市さんの「いかなる弾圧も怒りの炎に油を注ぐだけ」との不屈のコメントは、千葉さんに強い感銘を与えた。
 成田用水をめぐる85年7・21菱田現地闘争でデモ隊と機動隊が激しく衝突したが、この集会で発言した東市さんは、直後に医師に「うまく言葉が出なかった」と明かした。成田日赤病院で診察を受けたところ、脳梗塞と診断された。千葉さんはその後、12月までドライバーとして千葉県救急医療センターに車で東市さんを送り迎えし、言語療法と右半身のまひの作業療法のリハビリに付き添った。さらに、東市さんが何でも報告していたかかりつけの医師を週に2~3回市東家に車で送り届けていた。
 このように千葉さんも、最も身近で東市さんと接していたわけだが、弁護団が「藤﨑に頼まれて何か書類に署名したというような話はあったか」と質問すると、「まったく聞いたことはない」と言下に否定した。
 「市東さんは戸村一作委員長を尊敬し、空港絶対反対、農地死守・実力闘争、2期工事阻止・空港廃港という反対同盟の原則を最先頭で体現していた。80年代は『国労をつぶし、総評・社会党を解体し、お座敷をきれいにして新しい憲法を床の間に飾る』と称して中曽根政権の戦後政治の総決算攻撃がかけられ、成田2期工事が切迫し、国鉄には分割・民営化攻撃が襲いかかった。その時に原則を曲げずに闘っていたのが東市さんだ。多弁ではないが、生き方を背中で見せた。小細工をするようなことはまったく考えられない」と、千葉さんは語気を強めた。
 横井さん、千葉さんの証言で一層鮮明に浮かび上がった市東東市さんの不屈の闘魂は、NAAの描く珍説を完全に打ち砕いた。上野をはじめ代理人たちはこの間、失笑を買っても続けていた反対尋問を一切放棄した。

(写真 報告集会で市東さん)

 閉廷後の報告集会で市東さんがあいさつに立った。「法理は死んだ上西を出して責任逃れしただけ。横井さんと千葉さんの証言は、おやじとおふくろを思い出す本当にいい証言でした」
 2人の証人と弁護団が勝利感をもって発言し、法廷を振り返った。法理は無関係を装い続けたが、「同意書、確認書はホンモノ」との主張もできず、NAAが関連文書を隠匿していることに確信が深まった。

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