吉田素子同志偲ぶ会開く 「料理長として」尽きぬ思い出語り

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週刊『三里塚』02頁(1159号02面02)(2025/05/12)


吉田素子同志偲ぶ会開く
 「料理長として」尽きぬ思い出語り

(写真 吉田同志を偲んで献杯)

(写真 お花見での吉田さん)


 今年3月に逝去した吉田素子同志(竹尾さん)を偲ぶ会が5月10日、三里塚現地闘争本部主催で執り行われ、DC会館に集まった40人の参加者が思い出を語り合った。
 黙とうの後、三里塚現闘本部長があいさつし、「吉田同志の生き様から党における無条件の中央集権と鉄の規律がいかに保たれるのかを学んだ。彼女が岡山大学の学生だった頃、第一回原水禁大会に参加したというエピソードを聞いたことがある。中国侵略戦争・世界核戦争情勢が急切迫する中、吉田同志が生涯をかけて貫いた反戦・反核の闘い、反スターリン主義革命的共産主義運動の歴史と闘いを青年・学生・女性に引き継ごう」と呼びかけた。
 介護・看取りを献身的に行った女性現闘員たちは、吉田同志が老いを感じさせないくらいの革命家であったとともに「子どもを置いて党に結集し、その辛さと格闘し乗り越えた女性解放の戦士」と目をうるませながらエピソードを紹介した。
 反対同盟を代表して婦人行動隊の宮本麻子さんが追悼の言葉を述べた。宮本さんは、親身になって相談にのってくれた吉田さんへの感謝の意を表し、遺志を引き継ぎ三里塚闘争に勝利する決意を述べた。
 動労千葉からは川崎昌浩執行委員が発言に立った。動労千葉、反対同盟、韓国・民主労総との交流会で、彼女が料理長として場を仕切っていた思い出を語り、民主労総も三里塚現闘を高く評価していたと語った。
 マイクを回してのフリートークでは、三里塚闘争会館(成田治安法で破壊された団結小屋)時代からの吉田同志を知る古参の同志たちが、常時30人、闘争時には100人を超える食事を担当していた彼女のすごさを一人ひとりの思い出も交えて語るとともに、党員として厳しく指導されたことを紹介した。吉田同志は、1977年闘争会館の建設当時から三里塚現闘となり、当時の活動家には「母親」の世代であった。現闘や行動隊に動員された皆が、おおらかでありながら気遣いの細やかな性格の彼女を敬愛した。故戸村一作反対同盟委員長の親族の戸村裕実さんは、「ここに一作も来たかっただろう」と戸村委員長の写真を掲げつつ、終末病床を世話した吉田同志に感謝の言葉を述べた。
 閉会の辞で最古参の現闘員は、「彼女は戦争を体験し、反戦運動の中から革命的共産主義者同盟に結集した。戦争が切迫する中、彼女と同じように全人民が決起する情勢だ。それを実現することが故人の遺志だ」と革共同の34全総路線を実現することを訴えた。
 最後に参加者で「反対同盟の歌」を斉唱し、空港機能強化粉砕、市東さん農地死守決戦の勝利を誓いあった。(大戸剛)
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友人メッセージ
 「騒乱」いまだ終わらず 折田 隆

 竹尾さんが逝去したこの3月、千葉の書店の店頭には「成田の乱」と題する分厚い本が並びました。内容は、ブルジョアジャーナリズムの反革命的雑文ですが、表紙に横書きの「空港建設をめぐる戦後最大の騒乱は、まだ終わっていない」と記したタイトルは良い。
 三里塚闘争は、日本の内乱的闘争の現実性を示すものです。それは、今なお全国の労働者・農民・学生の魂を揺さぶっています。その主体は農民同志の決死の闘いですが、その支柱は反戦・全学連現地闘争本部の闘いです。竹尾さんは、鉄塔決戦以来、その兵たんのすべてを一手に担いぬき、その棟梁(とうりょう)として生き抜きました。
 その生き様に応えたい。ともに闘い抜きましょう。
 2025年5月10日

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