米問題の真相に迫る 再び侵略の手先にならない 全国農民会議共同代表 小川浩さん
米問題の真相に迫る
再び侵略の手先にならない
全国農民会議共同代表 小川浩さん


「食料安保」で戦争に動員
----日本はアメリカに対して、自動車産業の利益と引き換えに農産物を「自由化」し、市場を明け渡し続けてきました。米だけは国産を守ってきたと言われていますが。
トランプは「日本は米が足りなくて困っているなら、なぜアメリカから買わないのか」などと揺さぶりをかけている。
日本の農政の背後には、一貫してアメリカの戦略があったんじゃないか。戦後にはアメリカの余剰穀物を日本に大量にもってきて、それに合わせて「米をやめてパンを食べろ」とのキャンペーンが続いてきた。野党時代の自民党は、アメリカ主導のTPP(環太平洋連携協定=自由貿易協定)に「反対」を唱えていたが、政権に復帰したら、推進に逆転した。
そういう形で日本の市場を明け渡し、国内農業をつぶしていった。根底には、食料は足りなければ輸入すればいいという考えがある。日本の食料自給率は38%に下がったままだ。これで将来にわたって人々を食わせていけるのか。中国は、14億人の人口を1年半食わせていける穀物備蓄を目指しているというのに。
日本の主要な穀物輸入相手国は、アメリカを筆頭に、カナダ、ブラジル、オーストラリアと、「友好国」だから輸入が途絶えることはない、大丈夫だ、みたいな説明もあるが、今世界のあちこちで戦争が火を噴いている。海上封鎖など起きれば、たちまち食料難が現実のものになる。
一方、そうした状況の中で、右も左も「食料安全保障」を唱えるようになったことには注意しなければならない。
----「食料自給こそ本当の安全保障だ」という言い方ですね。
そういう問題意識は結局は「国益」を押し出された時、軍備増強、有事対応、戦争準備の方向にかすめ取られてしまう危険性がある。
食料供給困難事態法(食料有事法)が4月から施行された。異常気象や有事・戦争などで食料供給が不足した時に、政府が農家や食品事業者に生産・販売計画の作成や提出を求め、従わないと最大30万円の罰金を科す。農家にはカロリー重視の米や芋などへの作物転換や増産の指示が出され、従わなければ罰金。
あまりにも農家の実情を無視している。命令して罰金で脅してもそんなことが簡単にできるはずがない。でもそうやって農民を戦争に動員し、国民総動員体制みたいなものを作ろうとしてる。
----前任者の江藤農水相が「米は足りている、本当に危機の時にしか備蓄米は出さない」とふんぞり返っていたのと比べると、小泉農水相は「これはもう有事に等しいからどんどん備蓄米を出そう」という、非常に対照的な姿勢ですね。
今回の備蓄米放出を石破政権、小泉はいいチャンスだと思っている。農協つぶしの意図も込めて、有事に向けた教訓にしようとしている。
今回の参院選で「外国人」が焦点となり「日本人ファースト」を叫ぶ参政党が躍進した。排外主義とは厳しく対決しなくてはならない。
実際、今日本の労働現場は外国人労働者抜きには成り立たないし、現にこのあたりの多くの農家も外国人を雇うことで成り立っている。国際連帯の姿勢を揺るがすことなく、農民も排外主義と戦争に断固反対して闘わなければならない。
ガザでの民衆への食料の配給所は、国連がやってた時には400カ所くらいあったのが、アメリカ、イスラエルが代わってやりだしたらわずか4カ所になったという。爆弾を無差別に落としながら、住民を南の方に誘導するためだ。これは、かつて日本が行った「満蒙開拓」と同じだと感じた。日本の軍隊が水先案内人になって日本人が入植して農業をやり、中国の土地を奪っていった。日本農民は再び侵略の手先になってはならない、「台湾有事」を口実とした侵略戦争を許してはならないと痛切に思う。
三里塚は全国農民の指針
----三里塚闘争への思いをお聞かせください。
1960年代半ば、館山に今の農業大学校の前身の研修所があって、そこで勉強していた。養豚の研修で富里に入ったが、空港反対運動についてはあまり気にしてなかった。研修所では民青などの活動家も多かった。空港問題が66年に富里から三里塚に移ってきて、実力闘争を否定して反対同盟から追放された日本共産党・民青は、三里塚を「あれは破壊分子であり金もらってやってるトロツキストだ」となどと非難していた。成田で農村の青年を集めて集会をやった時に、「民青のそんな主張を許さない」ということで、萩原進さん(青年行動隊長、後の反対同盟事務局次長)とともに乗り込んで、壇上を占拠したこともある。
その後、社会党を通じて千代田農協の組合長に紹介してもらい、芝山に援農に入って交流した。
68年2月26日、反対同盟、全学連、砂川基地拡張反対同盟の共催で、成田市営グランドで総決起集会が開かれ、見学に行ったのだが、学生と機動隊が激しく衝突する中で、私も高台から引っ張り出されて7針縫うけがを負った。
以来今日まで三里塚とかかわりながら、全国農民会議を結成したが、三里塚の正義への確信が強まっている。三里塚は一貫して日本の農民・農業が置かれた現状の縮図であり、三里塚は自分にとって特別な、生きて闘う上での指針そのものだった。市東孝雄さんはその不屈の闘魂を体現して闘い続けている。全国の農民の課題として、市東さんの農地を守り、三里塚で勝利しなければならないと思う。
----労農連帯の今日的意義は重大ですね。
農民にとって、日々の農業に取り組みながら闘うことは確かに厳しいという面はある。全国農民会議として、十分に力を発揮できていないと感じる。ただ「農家も大変だ」と言ってるだけでは始まらない。大変な中でどうやってこの日本で労働者と農民の共闘、労農連帯を形作っていくか、今こそ真剣に考えたい。
----ありがとうございました。
▼満蒙開拓 日本は中国東北部を侵略し1932年に「満州国」をでっち上げた。「満蒙」は日本軍が占領した「満州・内蒙古(モンゴル)」を指す。30年代、日本は国内から武装した移民を「満蒙開拓団」と称して大量に送り込んだ。
