SANRIZUKA 2009/03/01(No770 p02)

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第700号の目次
   三里塚営農だより 市東孝雄さん宅 絶品の手作り落花生 記事を読む

1面の画像
(1面)
労農が連帯し「生きさせろ」貫け! 3・20渋谷デモ〜3・29三里塚へ
市東さんの農地守ろう 航空需要が激減 「北延伸」の根拠崩壊した
記事を読む
2・16市東さん耕作権裁判  “やはり石橋の畑(41の9)”
87年公式文書に明記  NAAの主張、崩壊の危機へ
記事を読む
塩川一派 「第4インターへの自己批判」を断罪する
世界革命情勢に恐怖し実力闘争に敵対・逃亡  三里塚現地闘争本部
記事を読む
ピンスポット 「歴史伝承館」による闘争破壊許すな
石毛博道らが策動
「43年」を昔話にして否定
記事を読む
3・29成功へパンフ出版
同盟、動労千葉、全学連…  青年・学生へ絶好の入門書
記事を読む
 コラム 団結街道 記事を読む
闘いの言葉 記事を読む
(2面)
動労千葉 春闘集会が大成功
会場埋め尽くす800人  1047名闘争の再出発を宣言
記事を読む
労農連帯で3・29へ  2・16集会 伊藤信晴さんの発言 記事を読む
国際連帯は今、世界を揺るがす   中国、米、独の労働者の闘い
UTLAロサンゼルス統一教組が大勝利
解雇撤回、高校での軍の募兵も阻止
出稼ぎ労働者が暴動 中国  ドイツでは巨大な春闘スト
記事を読む
三芝百景 三里塚現地日誌 2009  2月3日(火)〜2月17日(火) 記事を読む
三里塚営農だより  市東孝雄さん宅  絶品の手作り落花生 記事を読む
名調子で歌う「赤旗の歌」
三浦五郎さんの思い出(下) 三里塚現闘 香取龍作
戦前、2度の逮捕に屈せず  革命山脈に立つ気高い巨人
記事を読む

週刊『三里塚』(S770号1面1)(2009/03/01)

 労農が連帯し「生きさせろ」貫け!

 3・20渋谷デモ〜3・29三里塚へ

 市東さんの農地守ろう

 航空需要が激減 「北延伸」の根拠崩壊した

 3・20「生きさせろ!ゼネスト」渋谷デモ〜3・29三里塚全国総決起集会が迫ってきた。世界大恐慌情勢の下で、労働者と農民が連帯して「われわれに権力をよこせ」という闘いの突破口を実現する集会だ。課題と展望を明らかにする。
 世界大恐慌は、いよいよ本格化しつつある。最弱の環・日本でも金融部門から実体経済部門へと、経済の収縮はとどまるところを知らない。
 日帝・資本はパナソニックの1万5000人削減を先頭に、トヨタ自動車、ソニー、シャープなどが軒並み大量解雇攻撃を発表、重厚長大とされる鉄鋼や化学なども次々と生産縮小だ。まさに、どこにも出口のない帝国主義の末期的な危機が目の前で広がっている。
 この労働者・農民を食わせられなくなった帝国主義を打倒して、新たな社会を作るために、決定的な情勢を手繰り寄せる好機が到来している。
 その具体的な突破口こそ「闘う労働組合を甦らせ、労働運動の力で革命をやろう!」「労働者と農民が団結すれば世界は変わる」「国鉄1047名解雇撤回!道州制−民営化絶対反対」のスローガンをかかげて闘う「3・20生きさせろゼネスト」の渋谷デモであり、それと一体でかちとられる3・29三里塚全国総決起集会だ。
(写真 弁論終了後の報告会。NAAを圧倒した法廷での雰囲気そのままだった【2月16日 千葉市】)
      *
 現在の革命情勢は、三里塚闘争をこそ、光り輝かせ、熱く照らし出している。見よ、航空資本の青息吐息ぶりを。日本航空や全日本空輸は政府に対して、ついに公的支援を仰ぐところまで、経営危機を深刻化させた。
 3月期決算で、日航は370億円の営業赤字、全日空も同レベルの惨状と予想されている。国際線・国内線の廃止・休止・減便は日航で12路線、全日空で10路線だ。そして、この状況からの回復は基本的にありえない。
 つまり、来春開業とされる北延伸計画そのものがもはや不要になったということだ。2月13日に「4者協議」(国土交通省、空港会社、千葉県、成田市など)で合意された年間飛行回数「30万回化」(現在の1・5倍だ)など、お笑い草だということだ。
 1966年以来、数々の苦闘と試練を乗り越えてきた三里塚闘争は、44年目にして、ついに成田空港計画自体を阻む決定的な勝利の地平をかちとりつつある。
 であればこそ、日帝・麻生政権は、この全人民の共闘と結集の砦、闘いの火薬庫・三里塚闘争の解体を狙い、闘争破壊攻撃を強めている。
 必要があろうがなかろうが空港会社は今、来春の開業に向けた北延伸工事を急ピッチで強行している。「都心と空港を短時間で結ぶ」と称した成田新高速鉄道なるものの工事もこれ見よがしだ。開業キャンペーンも始まった。新たな住民動員組織づくりも策動されている。
 何よりも、この不要となった北延伸のための誘導路直線化のために、3代90年も耕してきた市東孝雄さんの命の農地を奪う攻撃が、2月3日の新たな裁判の開始という事態も含めて、極限的に激化している。
 この一環として、農地法の改悪攻撃が本格的に動き出してきた。日帝・支配階級は道州制導入攻撃の中で、大分キヤノンやトヨタ自動車がすでに行っているように、農地の大々的な不法転用〜強奪攻撃を狙っている。そのために、農地所有の完全な規制緩和に踏み出したのだ。
 さらに世界大恐慌の中で、農業分野自体がし烈な帝国主義間争闘戦の対象となっている。この観点から麻生首相は「平成の農地改革」を激しく要求している。
 反対同盟は3・29集会を「農民の生きさせろ集会だ」と銘打ち、北総から全国の農民に大結集することを呼びかけている。農地法改悪と断固対決する闘いとして成功させよう。
 そして、ソマリアへの自衛隊派兵、アフガン侵略戦争の強まりという中で、成田空港をめぐって自衛隊を動員した防災訓練〜軍事空港化の攻撃が激化している。
 3・29三里塚集会は、これらの攻撃をトータルに打ち返し、3・20闘争と一体で、日帝の危機に転化する重大な闘いだ。まず何よりも3・20渋谷デモで労働者階級の怒りを叩きつけよう。そして3・29三里塚に青年労働者・学生の大結集をかちとろう。300万農民の怒りを結集しよう。
(写真 去年の3・30三里塚総決起集会。3月29日の集会にさらに大勢の参加をかちとろう)

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週刊『三里塚』(S770号1面2)(2009/03/01)

 2・16市東さん耕作権裁判

 “やはり石橋の畑(41の9)”

 87年公式文書に明記

 NAAの主張、崩壊の危機へ

 2月16日、第10回市東さん耕作権裁判は85名の結集で闘われた。千葉地裁民事第2部(菅原崇裁判長)における口頭弁論では、反対同盟の空港会社に対する徹底的な追及がなされた。
前回空港会社は、市東さんの畑の位置の特定問題における最大の争点だった「41−9番地の畑」が、市東さんの耕作地ではなく石橋政次(元反対同盟副委員長)の耕作地だったことを認めた。そして、87年に空港公団が追加した収用裁決申請の賃貸借地特定で、ほぼ現在の市東さんの耕作場所が賃貸借地であることを認めた(解説参照)。
これこそ、空港会社による市東さんへの提訴のデタラメさを示すものである。まさに訴権の濫用であり、すぐにでも裁判を取り下げさせなければならない。
今回裁判では、この賃借地特定の誤りを追及する求釈明と証拠請求がおこなわれ、空港会社が3月末までに回答することになった。市東耕作権裁判は、正念場に入った。墓穴を掘った空港会社をさらに追撃しよう。次回5月11日、空港会社をさらに追いつめよう。
裁判後、記者会見・報告会がおこなわれた。冒頭、市東孝雄さんは「裁判は、佳境に入った。向こう(空港会社)がいろいろ出してきているが、すべてデタラメ。どんどんつっこんでいける。」と決意を表明した。
続いて、葉山岳夫弁護士から裁判の説明がなされ、記者などからは藤崎のメモや裁決申請書の記載について質問が出された。報告会では、北原鉱治事務局長が「空港会社は白を黒と言いくるめようとしている。こういう不正義を根本的に変えなければならない。全農民の生き方が問われている」と発言。
市東さんの農地とり上げに反対する会・井村弘子さんは「こんな事で裁判を続けることがおかしい。農民を大事にしていきたい」と怒りを表明した。動労千葉・滝口誠さんは「戦争を阻むストを打ち抜く。動労千葉は結成30年を迎えて、JR総連解体・青年労働者の獲得をめざす。同盟との労農連帯の力を確認している。麻生政権打倒・御手洗打倒を勝ち取ろう。3・20−3・29へ全力を」と連帯の挨拶をした。続いて、関西実行委員会・安藤真一さんと群馬・青柳晃玄さんが「三里塚の支援をさらに拡げる」と挨拶。
最後に鈴木謙太郎さんから「2月3日に3つめの裁判が始まった。闘う裁判としてしっかり取り組む。市東裁判闘争は農地法の改悪を阻止する闘い。3・29に大結集を。10月北延伸工事完成、来春3月開港攻撃を許さない。反対同盟は周辺ビラまきに決起する。労農連帯で闘う。全力で支援をお願いする」とまとめられた。 
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解説

反対同盟の追及の前に、空港会社は次々と墓穴を掘っている。一つが、前回弁論での空港会社の陳述。69年段階での畑の耕作状況についてはこちらの主張を空港会社が認めざるを得なくなった。
しかしこれを認めてしまったら、41−9について市東さんの契約畑だという空港会社の主張は、荒唐無稽になってしまう。そこで持ち出したのは藤崎政吉(元地主)の、東市さん(孝雄さんの親)に話して書いたというメモ。
これが墓穴の二つ目。勝手に藤崎が書いたメモである。不正確なメモで、今回法廷での追及で「赤線の所を渡らなければ行けないところ」とメモ書きしていながらその赤線など無い、きわめて信憑性の欠けるものであることがはっきりした。
三つ目に87年の段階で当時の空港公団は、千葉県収用委員会に対する収用裁決申請書の記載を変更し、その中で、市東東市さんの耕作している土地について、市東さん側の主張と同じ内容の記載をしていた。市東さんの主張の正しさを公式文書で認めていたのだ。
それから以後に、この点を訂正したのかどうか、求釈明しているが空港会社は回答できない。空港会社のデタラメは、明白である。うろたえ逃げ回る彼らをさらに追及して、粉砕しよう。

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週刊『三里塚』(S770号1面3)(2009/03/01)

 塩川一派 「第4インターへの自己批判」を断罪する

 世界革命情勢に恐怖し実力闘争に敵対・逃亡

 三里塚現地闘争本部

 わが三里塚現闘は、『1984年第4インターに対する軍事的せん滅戦にかんする自己批判』(塩川一派の『通信』1月20日付第25号掲載)なる塩川一派の新たな転向宣言、三里塚闘争破壊策動を徹底的に断罪し、満身の怒りをこめて塩川一派打倒を宣言する。
三里塚現闘は、農地死守・実力闘争を貫く反対同盟の闘いにこたえ、三里塚43年の闘いで培われた労農同盟の真価を今こそ発揮し、3・29三里塚全国集会の大結集・大爆発をかちとるために全力で決起することを誓う。

(1)3・8分裂は同盟破壊攻撃
反対同盟が43年の闘いを通して打ち立ててきた、「空港絶対反対・一切の話し合い拒否」「農地死守・実力闘争」「二期阻止・空港廃港」の原則は、日帝権力との絶対非和解の立場をとことん貫くものである。83年3・8分裂は、この原則を貫くのか否かをめぐる反対同盟の分裂であった。この死闘に勝利することによって今日の三里塚闘争が存在しているのである。
塩川一派の「自己批判」なるものは、石井新二らによる3・8分裂に積極的に加担して、三里塚闘争に敵対し脱落した第4インターを免罪し、塩川一派が脱落派の立場に立つことを内外に宣言した反革命転向宣言である。これは、三里塚闘争43年の農地死守・実力闘争の地平、反対同盟の不屈非妥協の闘いの全否定である。徹底的に粉砕する。
脱落派と第4インターが83年3・8分裂で行ったことは何か。それは、三里塚闘争に対する最大の破壊攻撃であった。 当時青行指導部であった石井新二らが、敷地内同盟が激しく反対しているにもかかわらず、「一坪再共有化運動」を勝手に推進し、分裂総会を強行して反対同盟を分裂させ、三里塚闘争から脱落・逃亡したのが、3・8分裂である。
3・8分裂は分裂のための分裂であり、最初から脱落派が仕組んだ陰謀だった。「一坪再共有化運動」とは、土地を不特定多数に売って金に換える運動である。その真の目的は、「農地死守・実力闘争」「空港絶対反対・一切の話し合い拒否」の原則を貫く三里塚闘争の破壊である。
反対同盟を条件派が乗っ取り、三里塚闘争を条件闘争に変質させるために、反対同盟を分裂させることにその狙いがあった。
それはまた、「一坪再共有化運動」で得た資金をもって、ペンションや風車をつくり、空港との共存運動に三里塚闘争を変質させるものであった。
さらに脱落派は空港公団の買収策動である成田用水を公然と推進した。三里塚闘争の終結が脱落派の目的だった。
3・8分裂は脱落派の石井新二らによる反革命分裂策動であったが、その本質は、日帝・運輸省(当時)・空港公団(当時)の、反対同盟破壊、切り崩し、話し合い策動であり、三里塚闘争つぶしの攻撃であった。
日帝・中曽根による新自由主義攻撃は、三里塚現地において、成田用水攻撃と一体の3・8分裂攻撃として反対同盟に加えられたのである。それは追いつめられた日帝権力の全体重をかけた起死回生の攻撃であった。
反対同盟と三里塚闘争は勝利か敗北かの重大な試練に直面した。日帝権力に屈服するのか、絶対反対で闘うのかが問われたのである。それは今日における革命的決起か、体制内との野合かの分岐に通底する。
反対同盟は敷地内反対同盟と北原事務局長を軸に固く団結し、同盟の原則を高々と掲げて、反対同盟破壊攻撃と猛然と対決し、石井新二ら脱落派を追放してこの分裂攻撃を粉砕し勝利したのである。
3・8分裂攻撃との闘いは、今日に至る長期強靭不屈の三里塚闘争の原点となった偉大な闘いであった。この勝利によって、反対同盟は自らを「絶対反対同盟」として確立し、今日まで勝利し抜いているのである。
三里塚現闘は、文字通り反対同盟と一体となって、反対同盟と三里塚闘争を守り抜くために闘いぬいた。

(2)反革命に転落した第4インター
この3・8分裂はすべての支援共闘と党派に選択を迫るものであった。そもそも敗北主義、屈服主義のゆえに、三里塚闘争の解体を背後から推進してきた第4インターは、その正体をあらわにして脱落派を徹底擁護して、反対同盟に襲いかかったのである。
第4インターは当時3・8分裂について、「3・8分裂は、敷地内反対同盟(数戸)との対立という犠牲を払いつつも強行されざるをえなかった」とビラで言っている。敷地内に対する公然たる敵対だ。
石井新二ら脱落派と結託して、敷地内反対同盟に敵対し、反対同盟と三里塚闘争の破壊に手を染めた第4インターは、三里塚闘争を裏切り、反革命へと転落し、バリケードの反対側に行ったのだ。階級的敵対関係に入ったのである。
塩川一派は「路線的対立を、相手を反革命とまで規定し」といってこの事実を否定し、「自己批判」し、第4インターによる三里塚闘争の破壊、敵対・裏切りを免罪しているのだ。これは塩川一派が第4インターと同じ立場に立つことの表明に他ならない。
三里塚闘争の分裂・破壊を行う第4インターの階級的大罪に対し、労働者階級人民の階級的怒りが爆発したのは当然である。

(3)三里塚闘争の解体、逃亡を企てる塩川一派
塩川一派がいまになって第4インターに「自己批判」するのはなぜか。世界大恐慌に突入し、世界革命情勢がついに到来して、三里塚闘争が労働者・農民の同盟を柱に巨万の実力闘争へと発展し、日帝・国家権力との非和解的激突として爆発することに塩川一派は心底から恐怖し、第4インターと同様の道を進もうとしているからである。
塩川一派の卑劣な自己批判は、現在の三里塚闘争破壊のためだ。三里塚闘争は、農地死守の闘いであり、空港絶対反対の闘いである。空港絶対反対、農地死守、実力闘争の闘いを全国に拡大し、国策である成田空港建設を粉砕する闘いである。塩川一派の「自己批判」の反階級性は、三里塚闘争の基本路線を否定し、三里塚闘争を権力と妥協できるものに変質させ、解体しようとすることにある。「自己批判」を徹底的に断罪し、塩川一派を打倒しよう。

(4)3・20渋谷デモから3・29三里塚へ
いよいよ本格的な階級的激突の幕が切って落とされた。新自由主義攻撃と真っ向から闘いぬく動労千葉はじめ青年労働者・学生を先頭に、怒涛の階級的反撃が始まった。
反対同盟農民は、一歩もひかず「農地死守・実力闘争」を貫いている。そして、不退転の決意をこめて3・29三里塚全国集会への大結集を熱烈に呼びかけている。3・29集会への大結集が労農同盟の新たな歴史を切り開く。
青年労働者・学生を先頭に「暫定滑走路粉砕!市東さんの農地強奪粉砕!帝国主義打倒!」をかかげ、09年の階級攻防の決定的な環として3・29集会への大結集をかちとろう! 
体制内労働運動執行部を打倒して、2〜3月「生きさせろ!」ゼネストの爆発へ突き進もう。法大を先頭に300万学生ゼネストの爆発へ突き進もう。3・20イラク反戦6周年・全世界一斉渋谷デモから3・29三里塚へ大結集しよう。

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週刊『三里塚』(S770号1面4)(2009/03/01)

ピンスポット

 「歴史伝承館」による闘争破壊許すな

 石毛博道らが策動

 「43年」を昔話にして否定

 元脱落派の石毛博道らおよび成田シンポ・円卓会議を推進した「地域振興連絡協議会」が、「成田空港の建設史を後世に残す歴史伝承館」なるものを計画していることが報道された(2月12日 朝日新聞千葉版)。断じて許せない。
 三里塚闘争が政府・国土交通省、空港会社による暫定滑走路の北延伸攻撃を打ち破って、大きく飛躍しようとしている時に、その三里塚闘争を全力推進するのではなく、否定するために、昔話のネタにしようとしているのだ。
 費用はすべて空港会社が出す、というのだから正体は推して知るべしだ。「成田空港の建設史を後世に残す」としている点でも、狙いは明白だ。
 この先頭に石毛博道が立っている。この男はシンポ・円卓会議を最も中心になって推進して来たが、日帝・政府、空港公団が、「今後、地権者の合意なしに滑走路は造らない」という、円卓会議の確約(1994年5月)すら破壊して暫定滑走路を建設したことに対して、抗議することもできず、逆に反対同盟を「闘っているから迷惑だ」と罵倒する卑劣漢だ。脱落派、「地域振興連絡協議会」などによる歴史伝承館策動を許さない。
(写真 成田シンポでの石毛博道)

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週刊『三里塚』(S770号1面5)(2009/03/01)

 3・29成功へパンフ出版

 同盟、動労千葉、全学連…

 青年・学生へ絶好の入門書

パンフレット「3・29三里塚へ」 3・29三里塚全国総決起集会の成功に向けたパンフレット「3・29三里塚へ」が刊行委員会から発行された。
 5つの部分からなる。第1部が「三里塚芝山連合空港反対同盟の決意とアピール」。北原鉱治事務局長、萩原進事務局次長、市東孝雄さん、鈴木謙太郎さん、伊藤信晴さん、宮本麻子さんの決意あふれる呼びかけ。2月3日に闘われた市東さんの農地法による農地取り上げ阻止裁判での市東孝雄さんの陳述が最後をしめている。
 第2部は「三里塚闘争を闘う弁護団と共闘団体から」で、顧問弁護団事務局長・葉山岳夫さん、動労千葉委員長・田中康宏さん、全学連委員長・織田陽介さんからアピール。
 第3部は「3・29に大結集しよう」という書き下ろしだ。金融大恐慌―世界革命情勢で光り輝く三里塚闘争という視点を縦糸に、三里塚の全領域を論じつくした絶好の三里塚闘争入門になっている。
 第4部として裁判闘争アピール、第5部として北野牧夫同志による萩原進さん著『農地収奪を阻む』の書評が掲載されている。
 新たな決戦段階に入った三里塚闘争の位置と意義そして課題を縦横に論じつくした好著だ。3・29闘争の成功にむけ、まず読み、そして活用しよう。

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週刊『三里塚』(S770号1面6)(2009/03/01)

 コラム 団結街道

 三里塚現闘・福士譲二同志が亡くなったのは、1年前の3月8日(享年56歳)。通夜の席では、好きだった井上陽水の歌が流されていた。彼は青森生まれで沖縄で活動。その後三里塚に派遣された。中咽頭癌で、一昨年秋に気づいた時には手遅れだったガン宣告の後も「沖縄と三里塚の架け橋になるんだ」とアピールを寄せつづけた。見舞いに行った時、「必ず三里塚に戻るから」と力強く言っていた。そのまま帰らぬ人になるとは見舞いには岡本喜八監督「赤毛」(69年)DVDを持っていった。彼は上京後、映画専門学校に入学し、その後、沖縄金武湾CTS闘争の記録映画制作にも加わった通院する車中で彼と日本映画を語りあったことがあり、その時に川島雄三監督「幕末太陽伝」(57年)が話題になった。映画「赤毛」は、赤報隊を背景にしたドラマで「幕末太陽伝」と同じ幕末・明治維新を民衆の側から捉えている。彼は喜んでいたが、逆にこちらに気配りしていたのではないか福士同志は器用だった。援農でもすぐに仕事を覚えた。今もデモで使っているプラカードは彼の手作りだ。彼の墓は家族のいる沖縄の地にある。しかしその志は、三里塚にあり、現闘と共に闘っている。沖縄と三里塚を駆け巡っているだろうジョン・レノンもカバーした「スタンド・バイ・ミー」を捧げたい。「友よ、側にいてくれ、いつでも君を助けられるように。友よ、側にいてくれ、僕を支えてくれ」

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週刊『三里塚』(S770号1面7)(2009/03/01)

 闘いの言葉

 自治体で臨時職員として働いているが、雇用はたったの4週間。備品扱いだ。われわれの賃金は「備品代」か。労働者は備品ではない!
 2月16日 青年労働者・立花悠希さん

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週刊『三里塚』(S770号2面1)(2009/03/01)

 動労千葉 春闘集会が大成功

 会場埋め尽くす800人

 1047名闘争の再出発を宣言

 2月16日、東京・錦糸町のすみだ産業会館において、動労千葉の主催で「2・16労働者総決起集会」が会場を埋め尽くす800人の参加で開かれた。
 この日は、1987年新会社=JRへの不採用通知が行われてから22年目にあたる。国鉄労働者にとって“怒りの日”である。動労千葉は、この集会で「1047名闘争の再出発」を宣言した。
 他方で、4者4団体の星陵会館の集会は、400人という惨状。
 集会で動労千葉の田中康宏委員長は、この問題の核心について「これまでの労働運動のあり方の崩壊」であると提起し、「1047名闘争という分割・民営化反対闘争が階級闘争でなければ、階級闘争はなくなってしまう。彼らは階級闘争を放棄した。それを情勢のせいにし、『闘争団はもたない』と現場のせいにしている」と述べ、「問われているのは、労働運動、階級闘争をめぐる決定的な路線問題だ」と明らかにした。
 そして、「20年以上にわたる国鉄分割・民営化反対闘争の全過程は、『国家権力・資本当局との闘い=労働者を屈服の道に引きずりこむ動労本部、国労本部との攻防、党派闘争』であった」「大恐慌の中で、絶対に勝てると確信している」としめくくった。
 集会ではこの他、反対同盟の伊藤信晴さん(要旨別掲)、動労千葉鉄道運輸機構訴訟弁護団の葉山岳夫弁護士、動労千葉を支援する会が来賓あいさつ。国労5・27臨大闘争弾圧被告などが不屈の決意を表明、各地でストなどを闘う労組の代表の闘いの報告を次々と受け、画期的な集会として成功した。
(写真 動労千葉主催の2・16春闘集会【東京・すみだ産業会館】)

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週刊『三里塚』(S770号2面2)(2009/03/01)

 労農連帯で3・29へ

 2・16集会 伊藤信晴さんの発言

 動労千葉が若い平成採の労働者を獲得して前進している姿に感激しています。集会スローガンにあるように、「解雇撤回」は労働者にとっての命です。この原則は反対同盟の空港絶対反対の原則に通じるものだと思います。動労千葉を先頭にした闘いの前進は、反対同盟との間に新たな戦略的な結合を実現できる情勢を切り開いていると思います。
 そして、絶対反対の原則を貫いて闘うことで、全人民の心を揺り動かすことのできる情勢です。 3月29日、反対同盟は全国総決起集会を開催します。みなさんもご存知のように、農地取り上げ攻撃と闘う市東孝雄さんは、1億8千万円という買収攻撃をはねのけて、前進し、「待ちに待った決戦が来た」との決意を2月3日の農地法裁判の時の千葉集会で表明しました。反対同盟の闘争陣形は健在です。
 一方で、この勝利の地平を突き崩すために、政府・空港会社は暫定滑走路の北延伸攻撃をしゃにむにかけてきています。10月に工事を完成させ、来年3月には供用を開始する、としているのです。同時に都心と空港を短時間で結ぶと称する成田新高速鉄道の工事も間際に迫っています。飛行回数の30万回化も叫ばれている。
 そして、供用が開始されれば、民家上空40bをジャンボ機が飛ぶという攻撃が襲いかかります。
43年の三里塚の勝利の地平を堅持するためにこそ、3・29闘争の爆発が求められています。三里塚も決戦中の決戦に突入しました。3・29への大結集を呼びかけます。

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週刊『三里塚』(S770号2面3)(2009/03/01)

 国際連帯は今、世界を揺るがす

 中国、米、独の労働者の闘い

 UTLAロサンゼルス統一教組が大勝利

 解雇撤回、高校での軍の募兵も阻止

 出稼ぎ労働者が暴動 中国

 ドイツでは巨大な春闘スト

 今週は、アメリカ・ロサンゼルスの教育労働者の闘い、ドイツの春闘ストそして中国での民工と呼ばれる出稼ぎ労働者の暴動的決起の闘いを紹介する。


アチーブメントテストのボイコット闘争、1月29日の大デモと、スト権確立の投票(3月20日〜25日)の実施発表などのあいつぐ闘いによって、ロサンゼルス統一教組(UTLA)とロサンゼルス統一学区(UTLSD)内の他の7つの組合に属する教育労働者は、2300人の教師の解雇撤回を勝ち取った。さらにそれ以後の闘いで、ついに医療手当の削減も阻止するという大きな成果を勝ち取った。学区側は、カイザー・アンド・ヘルスネットという保険会社以外の会社と契約している教師は、月187jの保険金を払えと言ってきたが、一連の激しい闘いによってこれを阻止したのだ。学区側はこれまでどおり、どの保険会社の保険金も負担することを認めた。
こうした成果のほかにも、組合の医療手当委員会が、医療手当に関する諸計画で大きな発言権を獲得した。また新規採用の教師にも生涯医療保障の権利を保持することを約束させた。1月29日の1万5000人の教師の実力決起、ストライキを辞さない闘争体制こそ、この勝利の決定的原動力だ。(写真上)
UTLAの闘いのもう一つの勝利は、UTLA内で活動するCAMS(校内の軍国主義に反対する連合)が、軍の学校内での宣伝活動を阻止したことだ。
軍当局はロサンゼルスの高校に軍の宣伝隊を派遣する計画を立てていた。宣伝隊は校内で最新の軍の装備を展示し軍隊と戦争を賛美し、校内で募兵活動を行う部隊だ。
事前にこれを察知したアーリーン・イノウエさんらCAMSのメンバーと生徒、両親、支持者は共同して宣伝隊の高校での活動を阻止する闘いを開始した。教師たちは学内での監視活動を行い、門前で生徒に宣伝隊反対のビラを配布した。宣伝隊が来たら、生徒たちは横断幕を出して抗議行動を行う体制をとった。CAMSのメンバーはイノウエさんを先頭に生徒の両親などとともに学校管理者と交渉を行い、軍の宣伝隊を校内に入れないように要請した。こうした闘いによってベルドゥーゴ高校での軍の宣伝活動は阻止された。その他の高校でも宣伝活動も延期ではなく、中止された。校内での募兵活動を阻止する闘いはまたもう一歩大きな前進を勝ち取ったのだ。

2月3日、ドイツ南部・バイエルン州の9つの都市で近距離交通の労働者数千人がストに決起した(写真下)。要求は9・5%の賃上げないし月々最低250ユーロの賃上げだ。州都ミュンヘンでは約1000人の労働者が朝の4時半から昼の3時半までの11時間ストに決起し、50万人の足に影響を与えた。ニュルンベルクなどでも1800人が24時間ストに決起、これまた50万の人々に影響をおよぼす大きな闘いとなった。
同じ日、北部のザクセン州、ニーダーザクセン州、ノルトライン―ウェストファーレン州、ブレーメン州などでは、小中高校や大学、州立病院、道路建設・管理事務所、州官庁など公共部門の労働者数万人がストライキに決起した。要求は8%の賃上げないし月々最低200ユーロの賃上げ。
ザクセン州では、1400の小・中・高校のうち1000校がストの影響で閉鎖となるほど教育労働者が活発にストに参加した。このザクセン州のストは翌4日、さらに拡大された。フランス・イタリア・ギリシャのゼネストから影響を受けつつドイツ労働者階級の09春闘が力強く始まった。 


2月14日夜、中国・浙江省桐郷市で5000人の出稼ぎ労働者(民工)が警官隊と激突し、少なくとも労働者の100人が負傷し20人以上が逮捕された。きっかけとなったのは、14日に起きた交通事故。自転車に乗った河南省の出稼ぎ労働者が車にはねられた。警官が処理に当たったが、はねられた出稼ぎ労働者は「はねられたのに救急車で病院にいって治療を受けられず、地面に寝かされたまま現場で金銭解決を要求されている」と警官に抗議した。これに怒った出稼ぎ労働者が集まり、警官隊と激突した。
当局は100人の警官を増派したが、出稼ぎ労働者も同郷の者たちを増援した。午後8時ころには、出稼ぎ労働者の数5000人となった。警官は警棒で襲い掛かるが、出稼ぎ労働者は棍棒や石、その他いろいろなもので対抗し、警察車両6台を破壊した。
世界大恐慌への突入と中国でのバブル経済の崩壊という中で、失業問題が本格化している。今回の決起は「ささいな」事件がきっかけとなっているが、今の中国の労働者の怒りが、まさに爆発しつつあることをまざまざと示した。このような労働者の闘いが、今後さらに拡大して中国で起きてくることは間違いない。 天安門事件から20年の今年、闘いは不可避的に中国スターリン主義との対決へ向かうだろう。

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週刊『三里塚』(S770号2面4)(2009/03/01)

 三芝百景 三里塚現地日誌 2009

 2月3日(火)〜2月17日(火)

●農水相、「減反」選択制表明 石破茂農林水産大臣は、米の減反政策について生産者に判断を委ねる「選択制」の導入を表明した。これは米の生産・流通価格の規制緩和推進であり、米価の暴落につながる恐れがある。(3日)
●農地法改悪案の概要明らかに 農水省が2月下旬に国会への提出を予定している農地法改悪案の概要が明らかになった。同法の根幹である第1条を書き換え、企業の参入規制を大幅に緩和するなど、1952年制定以来の大改悪となる。(5日)
●日航、370億円の営業赤字 日本航空が09年3月期決算業績予想を280億円の黒字から370億円の赤字へ下方修正、公的支援の要請も検討していることが明らかになった。全日空は社員の1割賃下げ方針を提案していたことが分かった。(6日)
●成田空港の08年輸出額、過去2番目の下げ幅 08年1年間の貿易概況で、成田空港の輸出額が01年に次ぐ過去2番目の下げ幅だったことが分かった。(6日)
●「縮む地方の翼」 日本航空と全日本空輸が4月以降、国内の17路線で廃止・減便する方針について地方からの悲鳴が上がっているとの報道がなされた。(8日=写真=読売新聞)
●共生委代表・山本雄二郎が暴言 1月9日に廃止された成田空港地域共生委員会の代表委員だった山本雄二郎は、新聞インタビューで「成田方式は(地域に)根付いた」なる暴言を吐いた。(10日)
●「歴史伝承館」の策動 脱落派事務局長だった石毛
博道を中心に「成田空港建設歴史伝承館」なるものの建設が策動されていることが判明した。(12日=1面に記事
●市東さん行政訴訟でNAAを圧倒 市東さんの耕作権訴訟で第10回弁論が千葉地裁闘われ、畑の位置特定問題でNAAを圧倒した。NAAが87年に提出した裁決申請書に、市東さんの主張を裏付ける記載があることも判明。(16日)

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週刊『三里塚』(S770号2面5)(2009/03/01)

 三里塚営農だより

 市東孝雄さん宅

 絶品の手作り落花生

 2月にしては過ごしやすい天候に戸惑いながら、作付け準備に汗を流しています。市東さんの畑では、春先の端境期対策として、大根、小松菜、ラデッシュの種まきを先ほど終えました。
 大根は直径4センチの穴の空いたマルチ(約900個)に人差し指でチョンチョンと窪みを3つ作り、そこに胡麻粒程の種を1粒づつ落として播いて行きます。細かい作業なので素手で作業しますが、霜が下りる様な寒い日は手がカジかみ、うまく種を落とせません。
 それと並行してやっているのが、落花生の天日干しです。
 選別を終えた落花生を水洗いして汚れを落とし、畳1畳程の網に広げて、風と太陽の恵みで乾かします(写真)。それらを煎って食べられるのが3月上旬になります。
 無農薬で、しかも煎る以外全て手作業で、エラく手間がかかりますが、その分、落花生本来の甘味とコクが楽しめます。
 しかも、この落花生の種は市東東市さんの代から、大切に守っている自種で、(自分の家で種を採取し毎年、継承してきたもの)闘争の歴史を畑で見守って来たツワモノです。
 この仕事を終えると、切り干し大根作りが始まります。程よく切った大根を網に広げて、4〜5日掛けて干し上げます。出来たての切り干しは、香り高く、何とも言えぬ甘味が口に広がります。

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週刊『三里塚』(S770号2面6)(2009/03/01)

 名調子で歌う「赤旗の歌」

 三浦五郎さんの思い出(下) 三里塚現闘 香取龍作

 戦前、2度の逮捕に屈せず

 革命山脈に立つ気高い巨人

 三浦五郎さんは、1932年10月治安維持法違反で逮捕される。いわゆる十月事件である。当時、三浦さんは、日農全国会議派の組合員で共産主義青年同盟(共産党の下部組織)に加盟していた。
29年4・16弾圧後、千葉県で再建された共産党の組織の実体は日農千葉で、その拠点が成田・八街の印旛郡と後の芝山町となる二川村と千代田村岩山だった。これが根こそぎ弾圧されたのである。三浦さんは、竹刀で叩かれたことや水を無理やり飲まされた拷問を語ってくれた。
その時彼は、天皇制と警察権力に感情を抑えられず怒りをあらわにしていた。彼は、その後の人民戦線事件でも逮捕される。次は家族の話である。三浦さんが逮捕される際に、母である松世さんは子供たちに「よく見ておきなさい。五郎は悪いことをしてつかまるんじゃない、正しいことをしているんだ」と気丈に言い聞かせた。
三浦さんの愛用車は、50CCバイク、青緑のカブだ。彼は、70歳ぐらい(1980年頃)までこれを乗り回した。真っ直ぐ背筋を伸ばし、岩山大鉄塔・用地内闘争現場に駆けつける。機動隊の阻止線もこの老人の気迫の前では止められなかったようだ。彼は農民組合新聞の配布・集金を担当していた。
70年代まで農家に夜行けば酒を勧められ、一献やりながら話をするのが農民オルグの一つのスタイルだった。三浦さんも例外でない。50CCカブで農家を訪れては交流する。
ある夜、白桝部落の組合員宅を訪問した後、帰宅途中、田んぼ脇のミヨ(小水路)に突っ込んだ。「あんなに深いと思わなかった。ここで死ぬと覚悟した」と語っていた。
3・8分裂(注1)前後の82年〜83年は、連日の闘争と会議が続いた。わたしがよく三浦さんを迎えたが、同乗者は南三里塚同盟の宮本嘉(よしみ=注2)さん。行き帰りの車中が意志一致と総括の場だった。
三浦さんは「膿みは出し切らなければならない。これで本当の同盟が出来る。われわれが用地内を支えなくちゃなぁ」と繰り返していた。当時、中堅を担いつつあった萩原進さんに同盟の将来を託していた。宮本さんは、3・8分裂後、副行動隊長で活躍し、三浦さんは全国集会の開会挨拶などで闘いを牽引した。
80年代の半ばのことだと思う。普段は、われわれに個人的私用を頼むことのない三浦さんが千葉市内への送迎を頼んできた。現闘は、同盟と家族以上の気安い関係で、家族に頼めないこともよく依頼されていた。買い物から介護、汲み取りまでやった。そのなかでも三浦さんは、公私を厳格に区別していたようだ。
その時の用件は、社会党千葉県連の大会出席。その大会は、千葉県で強かった協会派の除名を決定することが最大議案だった。県連統制委員長の彼は欠席できなかった。「これで社会党とも最後だから(運転を)お願いしたよ。石橋(当時の社会党委員長)は安保政策を変更した(注3)。社会党もダメだよ。若かったら、君たち革命党に入りたいよ」と車中で語っていた。その後は、病院の送迎なども頼まれることになる。
忘れられない想い出がある。私が三里塚に来て間もない開港阻止闘争の頃、岩山地区同盟の飲み会で三浦さんが「赤旗の歌」(注4)を歌いだしたことだ。こんな戦闘的な農民がいるのかとびっくりした。まだカラオケなどなく、アカペラだ。それが、ずっこけるぐらい音痴。爆笑の中、大きな声で歌い続ける。「卑怯者、さらば去れ、我らは赤旗守る」。
ここで「いいぞ、飯岡まで来たぞ」の掛け声が入り、さらに場が盛り上がる(これは千葉の人でないと分からないが、飯岡は千葉県銚子市の隣町で「銚子=調子」に近づいた事の言い換え)。ムンムンする熱気が渦巻いていた。「我らは赤旗守る」―これは三浦さんの人生そのものとなった。
五郎さんは、90歳を過ぎても農業を続けた。畑に出られなければ、作業場で出荷作業を手伝った。働かずには居られない性分だった。家の人も、「農作業をしていた方が、長生きする」と見守っていた。ここ数年は、体調を壊し農作業の手伝いも自粛していたが、市東さんへの土地取り上げ攻撃に居ても立ってもいられなかった。空港会社の耕作権解除請求を成田市農業委員会が許可して千葉県知事に進達すると、06年7月「自分は農業委員であったが、農民から農地を取り上げるなど考えられない。はってでも参加する」と記者会見に駆けつけた。
三浦五郎さんは、巨人だった。死しても彼は反対同盟の中に生き続け、さらに大きくなる。彼の半生をかけた農地解放は、新たな農民闘争として市東孝雄さんの闘いに受け継がれている。
三里塚闘争と日本プロレタリア革命の勝利は、彼を巨大な山に成長させるだろう。労働者権力樹立・社会主義社会の建設は彼を革命山脈のそびえる峻岳にさせ、それは多くの人から仰ぎ見られることになるだろう。私はこれを実現させたい。
(写真 笑顔が素敵な三浦さん【2001年12月】)

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(注1)3・8分裂 1983年3月8日の反対同盟内で起きた脱落派との分裂。「一坪再共有化」という名の一坪共有地売却運動をもって、三里塚闘争を条件闘争に変質させようとした策動を粉砕して闘争の隊列から叩き出した。脱落派支援党派も逃亡した。

(注2)宮本嘉さん 3・8分裂後の反対同盟の名副行動隊長。1987年に逝去。

(注3)安保政策の変更 1983年から社会党委員長に就任した石橋政嗣が唱えた自衛隊の「違憲合法論」。「自衛隊は違憲ではあるが合法だ」と安保政策を転換して、自衛隊容認に道を開こうとした。

(注4)赤旗の歌 1889年にドイツで作られた有名な労働歌。民謡「樅の木」にジム・コンネルが詩をつけた。日本では赤松克麿が翻訳。

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