SANRIZUKA 2009/03/01(No770 p02)
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反対同盟の追及の前に、空港会社は次々と墓穴を掘っている。一つが、前回弁論での空港会社の陳述。69年段階での畑の耕作状況についてはこちらの主張を空港会社が認めざるを得なくなった。
しかしこれを認めてしまったら、41−9について市東さんの契約畑だという空港会社の主張は、荒唐無稽になってしまう。そこで持ち出したのは藤崎政吉(元地主)の、東市さん(孝雄さんの親)に話して書いたというメモ。
これが墓穴の二つ目。勝手に藤崎が書いたメモである。不正確なメモで、今回法廷での追及で「赤線の所を渡らなければ行けないところ」とメモ書きしていながらその赤線など無い、きわめて信憑性の欠けるものであることがはっきりした。
三つ目に87年の段階で当時の空港公団は、千葉県収用委員会に対する収用裁決申請書の記載を変更し、その中で、市東東市さんの耕作している土地について、市東さん側の主張と同じ内容の記載をしていた。市東さんの主張の正しさを公式文書で認めていたのだ。
それから以後に、この点を訂正したのかどうか、求釈明しているが空港会社は回答できない。空港会社のデタラメは、明白である。うろたえ逃げ回る彼らをさらに追及して、粉砕しよう。
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(1)3・8分裂は同盟破壊攻撃
反対同盟が43年の闘いを通して打ち立ててきた、「空港絶対反対・一切の話し合い拒否」「農地死守・実力闘争」「二期阻止・空港廃港」の原則は、日帝権力との絶対非和解の立場をとことん貫くものである。83年3・8分裂は、この原則を貫くのか否かをめぐる反対同盟の分裂であった。この死闘に勝利することによって今日の三里塚闘争が存在しているのである。
塩川一派の「自己批判」なるものは、石井新二らによる3・8分裂に積極的に加担して、三里塚闘争に敵対し脱落した第4インターを免罪し、塩川一派が脱落派の立場に立つことを内外に宣言した反革命転向宣言である。これは、三里塚闘争43年の農地死守・実力闘争の地平、反対同盟の不屈非妥協の闘いの全否定である。徹底的に粉砕する。
脱落派と第4インターが83年3・8分裂で行ったことは何か。それは、三里塚闘争に対する最大の破壊攻撃であった。 当時青行指導部であった石井新二らが、敷地内同盟が激しく反対しているにもかかわらず、「一坪再共有化運動」を勝手に推進し、分裂総会を強行して反対同盟を分裂させ、三里塚闘争から脱落・逃亡したのが、3・8分裂である。
3・8分裂は分裂のための分裂であり、最初から脱落派が仕組んだ陰謀だった。「一坪再共有化運動」とは、土地を不特定多数に売って金に換える運動である。その真の目的は、「農地死守・実力闘争」「空港絶対反対・一切の話し合い拒否」の原則を貫く三里塚闘争の破壊である。
反対同盟を条件派が乗っ取り、三里塚闘争を条件闘争に変質させるために、反対同盟を分裂させることにその狙いがあった。
それはまた、「一坪再共有化運動」で得た資金をもって、ペンションや風車をつくり、空港との共存運動に三里塚闘争を変質させるものであった。
さらに脱落派は空港公団の買収策動である成田用水を公然と推進した。三里塚闘争の終結が脱落派の目的だった。
3・8分裂は脱落派の石井新二らによる反革命分裂策動であったが、その本質は、日帝・運輸省(当時)・空港公団(当時)の、反対同盟破壊、切り崩し、話し合い策動であり、三里塚闘争つぶしの攻撃であった。
日帝・中曽根による新自由主義攻撃は、三里塚現地において、成田用水攻撃と一体の3・8分裂攻撃として反対同盟に加えられたのである。それは追いつめられた日帝権力の全体重をかけた起死回生の攻撃であった。
反対同盟と三里塚闘争は勝利か敗北かの重大な試練に直面した。日帝権力に屈服するのか、絶対反対で闘うのかが問われたのである。それは今日における革命的決起か、体制内との野合かの分岐に通底する。
反対同盟は敷地内反対同盟と北原事務局長を軸に固く団結し、同盟の原則を高々と掲げて、反対同盟破壊攻撃と猛然と対決し、石井新二ら脱落派を追放してこの分裂攻撃を粉砕し勝利したのである。
3・8分裂攻撃との闘いは、今日に至る長期強靭不屈の三里塚闘争の原点となった偉大な闘いであった。この勝利によって、反対同盟は自らを「絶対反対同盟」として確立し、今日まで勝利し抜いているのである。
三里塚現闘は、文字通り反対同盟と一体となって、反対同盟と三里塚闘争を守り抜くために闘いぬいた。
(2)反革命に転落した第4インター
この3・8分裂はすべての支援共闘と党派に選択を迫るものであった。そもそも敗北主義、屈服主義のゆえに、三里塚闘争の解体を背後から推進してきた第4インターは、その正体をあらわにして脱落派を徹底擁護して、反対同盟に襲いかかったのである。
第4インターは当時3・8分裂について、「3・8分裂は、敷地内反対同盟(数戸)との対立という犠牲を払いつつも強行されざるをえなかった」とビラで言っている。敷地内に対する公然たる敵対だ。
石井新二ら脱落派と結託して、敷地内反対同盟に敵対し、反対同盟と三里塚闘争の破壊に手を染めた第4インターは、三里塚闘争を裏切り、反革命へと転落し、バリケードの反対側に行ったのだ。階級的敵対関係に入ったのである。
塩川一派は「路線的対立を、相手を反革命とまで規定し」といってこの事実を否定し、「自己批判」し、第4インターによる三里塚闘争の破壊、敵対・裏切りを免罪しているのだ。これは塩川一派が第4インターと同じ立場に立つことの表明に他ならない。
三里塚闘争の分裂・破壊を行う第4インターの階級的大罪に対し、労働者階級人民の階級的怒りが爆発したのは当然である。
(3)三里塚闘争の解体、逃亡を企てる塩川一派
塩川一派がいまになって第4インターに「自己批判」するのはなぜか。世界大恐慌に突入し、世界革命情勢がついに到来して、三里塚闘争が労働者・農民の同盟を柱に巨万の実力闘争へと発展し、日帝・国家権力との非和解的激突として爆発することに塩川一派は心底から恐怖し、第4インターと同様の道を進もうとしているからである。
塩川一派の卑劣な自己批判は、現在の三里塚闘争破壊のためだ。三里塚闘争は、農地死守の闘いであり、空港絶対反対の闘いである。空港絶対反対、農地死守、実力闘争の闘いを全国に拡大し、国策である成田空港建設を粉砕する闘いである。塩川一派の「自己批判」の反階級性は、三里塚闘争の基本路線を否定し、三里塚闘争を権力と妥協できるものに変質させ、解体しようとすることにある。「自己批判」を徹底的に断罪し、塩川一派を打倒しよう。
(4)3・20渋谷デモから3・29三里塚へ
いよいよ本格的な階級的激突の幕が切って落とされた。新自由主義攻撃と真っ向から闘いぬく動労千葉はじめ青年労働者・学生を先頭に、怒涛の階級的反撃が始まった。
反対同盟農民は、一歩もひかず「農地死守・実力闘争」を貫いている。そして、不退転の決意をこめて3・29三里塚全国集会への大結集を熱烈に呼びかけている。3・29集会への大結集が労農同盟の新たな歴史を切り開く。
青年労働者・学生を先頭に「暫定滑走路粉砕!市東さんの農地強奪粉砕!帝国主義打倒!」をかかげ、09年の階級攻防の決定的な環として3・29集会への大結集をかちとろう!
体制内労働運動執行部を打倒して、2〜3月「生きさせろ!」ゼネストの爆発へ突き進もう。法大を先頭に300万学生ゼネストの爆発へ突き進もう。3・20イラク反戦6周年・全世界一斉渋谷デモから3・29三里塚へ大結集しよう。
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今週は、アメリカ・ロサンゼルスの教育労働者の闘い、ドイツの春闘ストそして中国での民工と呼ばれる出稼ぎ労働者の暴動的決起の闘いを紹介する。
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アチーブメントテストのボイコット闘争、1月29日の大デモと、スト権確立の投票(3月20日〜25日)の実施発表などのあいつぐ闘いによって、ロサンゼルス統一教組(UTLA)とロサンゼルス統一学区(UTLSD)内の他の7つの組合に属する教育労働者は、2300人の教師の解雇撤回を勝ち取った。さらにそれ以後の闘いで、ついに医療手当の削減も阻止するという大きな成果を勝ち取った。学区側は、カイザー・アンド・ヘルスネットという保険会社以外の会社と契約している教師は、月187jの保険金を払えと言ってきたが、一連の激しい闘いによってこれを阻止したのだ。学区側はこれまでどおり、どの保険会社の保険金も負担することを認めた。
こうした成果のほかにも、組合の医療手当委員会が、医療手当に関する諸計画で大きな発言権を獲得した。また新規採用の教師にも生涯医療保障の権利を保持することを約束させた。1月29日の1万5000人の教師の実力決起、ストライキを辞さない闘争体制こそ、この勝利の決定的原動力だ。(写真上)
UTLAの闘いのもう一つの勝利は、UTLA内で活動するCAMS(校内の軍国主義に反対する連合)が、軍の学校内での宣伝活動を阻止したことだ。
軍当局はロサンゼルスの高校に軍の宣伝隊を派遣する計画を立てていた。宣伝隊は校内で最新の軍の装備を展示し軍隊と戦争を賛美し、校内で募兵活動を行う部隊だ。
事前にこれを察知したアーリーン・イノウエさんらCAMSのメンバーと生徒、両親、支持者は共同して宣伝隊の高校での活動を阻止する闘いを開始した。教師たちは学内での監視活動を行い、門前で生徒に宣伝隊反対のビラを配布した。宣伝隊が来たら、生徒たちは横断幕を出して抗議行動を行う体制をとった。CAMSのメンバーはイノウエさんを先頭に生徒の両親などとともに学校管理者と交渉を行い、軍の宣伝隊を校内に入れないように要請した。こうした闘いによってベルドゥーゴ高校での軍の宣伝活動は阻止された。その他の高校でも宣伝活動も延期ではなく、中止された。校内での募兵活動を阻止する闘いはまたもう一歩大きな前進を勝ち取ったのだ。
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2月3日、ドイツ南部・バイエルン州の9つの都市で近距離交通の労働者数千人がストに決起した(写真下)。要求は9・5%の賃上げないし月々最低250ユーロの賃上げだ。州都ミュンヘンでは約1000人の労働者が朝の4時半から昼の3時半までの11時間ストに決起し、50万人の足に影響を与えた。ニュルンベルクなどでも1800人が24時間ストに決起、これまた50万の人々に影響をおよぼす大きな闘いとなった。
同じ日、北部のザクセン州、ニーダーザクセン州、ノルトライン―ウェストファーレン州、ブレーメン州などでは、小中高校や大学、州立病院、道路建設・管理事務所、州官庁など公共部門の労働者数万人がストライキに決起した。要求は8%の賃上げないし月々最低200ユーロの賃上げ。
ザクセン州では、1400の小・中・高校のうち1000校がストの影響で閉鎖となるほど教育労働者が活発にストに参加した。このザクセン州のストは翌4日、さらに拡大された。フランス・イタリア・ギリシャのゼネストから影響を受けつつドイツ労働者階級の09春闘が力強く始まった。
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2月14日夜、中国・浙江省桐郷市で5000人の出稼ぎ労働者(民工)が警官隊と激突し、少なくとも労働者の100人が負傷し20人以上が逮捕された。きっかけとなったのは、14日に起きた交通事故。自転車に乗った河南省の出稼ぎ労働者が車にはねられた。警官が処理に当たったが、はねられた出稼ぎ労働者は「はねられたのに救急車で病院にいって治療を受けられず、地面に寝かされたまま現場で金銭解決を要求されている」と警官に抗議した。これに怒った出稼ぎ労働者が集まり、警官隊と激突した。
当局は100人の警官を増派したが、出稼ぎ労働者も同郷の者たちを増援した。午後8時ころには、出稼ぎ労働者の数5000人となった。警官は警棒で襲い掛かるが、出稼ぎ労働者は棍棒や石、その他いろいろなもので対抗し、警察車両6台を破壊した。
世界大恐慌への突入と中国でのバブル経済の崩壊という中で、失業問題が本格化している。今回の決起は「ささいな」事件がきっかけとなっているが、今の中国の労働者の怒りが、まさに爆発しつつあることをまざまざと示した。このような労働者の闘いが、今後さらに拡大して中国で起きてくることは間違いない。 天安門事件から20年の今年、闘いは不可避的に中国スターリン主義との対決へ向かうだろう。
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三浦五郎さんは、1932年10月治安維持法違反で逮捕される。いわゆる十月事件である。当時、三浦さんは、日農全国会議派の組合員で共産主義青年同盟(共産党の下部組織)に加盟していた。
29年4・16弾圧後、千葉県で再建された共産党の組織の実体は日農千葉で、その拠点が成田・八街の印旛郡と後の芝山町となる二川村と千代田村岩山だった。これが根こそぎ弾圧されたのである。三浦さんは、竹刀で叩かれたことや水を無理やり飲まされた拷問を語ってくれた。
その時彼は、天皇制と警察権力に感情を抑えられず怒りをあらわにしていた。彼は、その後の人民戦線事件でも逮捕される。次は家族の話である。三浦さんが逮捕される際に、母である松世さんは子供たちに「よく見ておきなさい。五郎は悪いことをしてつかまるんじゃない、正しいことをしているんだ」と気丈に言い聞かせた。
三浦さんの愛用車は、50CCバイク、青緑のカブだ。彼は、70歳ぐらい(1980年頃)までこれを乗り回した。真っ直ぐ背筋を伸ばし、岩山大鉄塔・用地内闘争現場に駆けつける。機動隊の阻止線もこの老人の気迫の前では止められなかったようだ。彼は農民組合新聞の配布・集金を担当していた。
70年代まで農家に夜行けば酒を勧められ、一献やりながら話をするのが農民オルグの一つのスタイルだった。三浦さんも例外でない。50CCカブで農家を訪れては交流する。
ある夜、白桝部落の組合員宅を訪問した後、帰宅途中、田んぼ脇のミヨ(小水路)に突っ込んだ。「あんなに深いと思わなかった。ここで死ぬと覚悟した」と語っていた。
3・8分裂(注1)前後の82年〜83年は、連日の闘争と会議が続いた。わたしがよく三浦さんを迎えたが、同乗者は南三里塚同盟の宮本嘉(よしみ=注2)さん。行き帰りの車中が意志一致と総括の場だった。
三浦さんは「膿みは出し切らなければならない。これで本当の同盟が出来る。われわれが用地内を支えなくちゃなぁ」と繰り返していた。当時、中堅を担いつつあった萩原進さんに同盟の将来を託していた。宮本さんは、3・8分裂後、副行動隊長で活躍し、三浦さんは全国集会の開会挨拶などで闘いを牽引した。
80年代の半ばのことだと思う。普段は、われわれに個人的私用を頼むことのない三浦さんが千葉市内への送迎を頼んできた。現闘は、同盟と家族以上の気安い関係で、家族に頼めないこともよく依頼されていた。買い物から介護、汲み取りまでやった。そのなかでも三浦さんは、公私を厳格に区別していたようだ。
その時の用件は、社会党千葉県連の大会出席。その大会は、千葉県で強かった協会派の除名を決定することが最大議案だった。県連統制委員長の彼は欠席できなかった。「これで社会党とも最後だから(運転を)お願いしたよ。石橋(当時の社会党委員長)は安保政策を変更した(注3)。社会党もダメだよ。若かったら、君たち革命党に入りたいよ」と車中で語っていた。その後は、病院の送迎なども頼まれることになる。
忘れられない想い出がある。私が三里塚に来て間もない開港阻止闘争の頃、岩山地区同盟の飲み会で三浦さんが「赤旗の歌」(注4)を歌いだしたことだ。こんな戦闘的な農民がいるのかとびっくりした。まだカラオケなどなく、アカペラだ。それが、ずっこけるぐらい音痴。爆笑の中、大きな声で歌い続ける。「卑怯者、さらば去れ、我らは赤旗守る」。
ここで「いいぞ、飯岡まで来たぞ」の掛け声が入り、さらに場が盛り上がる(これは千葉の人でないと分からないが、飯岡は千葉県銚子市の隣町で「銚子=調子」に近づいた事の言い換え)。ムンムンする熱気が渦巻いていた。「我らは赤旗守る」―これは三浦さんの人生そのものとなった。
五郎さんは、90歳を過ぎても農業を続けた。畑に出られなければ、作業場で出荷作業を手伝った。働かずには居られない性分だった。家の人も、「農作業をしていた方が、長生きする」と見守っていた。ここ数年は、体調を壊し農作業の手伝いも自粛していたが、市東さんへの土地取り上げ攻撃に居ても立ってもいられなかった。空港会社の耕作権解除請求を成田市農業委員会が許可して千葉県知事に進達すると、06年7月「自分は農業委員であったが、農民から農地を取り上げるなど考えられない。はってでも参加する」と記者会見に駆けつけた。
三浦五郎さんは、巨人だった。死しても彼は反対同盟の中に生き続け、さらに大きくなる。彼の半生をかけた農地解放は、新たな農民闘争として市東孝雄さんの闘いに受け継がれている。
三里塚闘争と日本プロレタリア革命の勝利は、彼を巨大な山に成長させるだろう。労働者権力樹立・社会主義社会の建設は彼を革命山脈のそびえる峻岳にさせ、それは多くの人から仰ぎ見られることになるだろう。私はこれを実現させたい。
(写真 笑顔が素敵な三浦さん【2001年12月】)
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(注1)3・8分裂 1983年3月8日の反対同盟内で起きた脱落派との分裂。「一坪再共有化」という名の一坪共有地売却運動をもって、三里塚闘争を条件闘争に変質させようとした策動を粉砕して闘争の隊列から叩き出した。脱落派支援党派も逃亡した。
(注2)宮本嘉さん 3・8分裂後の反対同盟の名副行動隊長。1987年に逝去。
(注3)安保政策の変更 1983年から社会党委員長に就任した石橋政嗣が唱えた自衛隊の「違憲合法論」。「自衛隊は違憲ではあるが合法だ」と安保政策を転換して、自衛隊容認に道を開こうとした。
(注4)赤旗の歌 1889年にドイツで作られた有名な労働歌。民謡「樅の木」にジム・コンネルが詩をつけた。日本では赤松克麿が翻訳。