JR総連の破産・危機にあえぎ 動労千葉派に悪罵とケチつけ 国鉄決戦の前進に『解放』が悲鳴

週刊『前進』08頁(2646号03面02)(2014/09/01)


JR総連の破産・危機にあえぎ
 動労千葉派に悪罵とケチつけ
 国鉄決戦の前進に『解放』が悲鳴


 国鉄決戦を基軸とする革命的共産主義運動と動労千葉労働運動の前進に、反革命カクマルはけたたましく悲鳴を上げ始めた。カクマルの機関紙『解放』は、8月4日付号と8月11日付号に連続して革共同に悪罵(あくば)を投げつける反革命論文を掲載した。とりわけ8月11日付号に掲載された「『合同労組運動』の名によるハミダシ労働運動の反階級性」と題された文章は、革共同の階級的労働運動の実践にカクマルがいかに打撃を受け消耗しているかを示している。「合同労組運動」をテーマにしているかに見えるこの反革命論文の基底にあるのは、国鉄決戦の前進に対するカクマルの恐怖だ。

カクマルの反革命性と裏切りを暴く国鉄決戦

 この反革命論文で、カクマルは動労千葉に対し聞くに堪えない悪罵を繰り返し投げつけている。
 具体的には「(革共同の)『合同労組運動』なるものは......動労千葉を〝中核〟としたハミダシ労組活動家集団としての延命を図るための術策でしかない」「『新自由主義攻撃との闘い』というイデオロギー的シンボルは、政府ならびに独占ブルジョアジーの諸攻撃にたいする種々の『闘い』・諸戦線の『闘い』を『国鉄決戦』という名の〝動労千葉支援〟に収斂(しゅうれん)させるための道具立てにすぎない」などの言辞だ。
 革共同は合同・一般労組はもとより全産別で国鉄決戦を基軸に階級的労働運動路線を貫いている。カクマルは、それが許せないとわめく。なぜなら、国鉄決戦こそカクマルの反革命性と反労働者性を徹底的に暴き出さずにはおかないからだ。
 「国鉄労働運動を解体し、総評を解体して立派な憲法を安置する」とうそぶいた中曽根のファシスト先兵となって、国鉄分割・民営化を率先推進したのがカクマルだ。分割・民営化の過程で200人近い労働者を自殺に追いやったのもカクマルの悪行だった。その反革命の原点をえぐりだされることに、カクマルは絶対に耐えきれないのだ。
 カクマルを追い詰めた重大な要因に、全国で取り組まれた解雇撤回・JR復帰の10万筆署名運動の物質力がある。東京地裁・東京高裁に国鉄解雇は不当労働行為と認めさせた勝利の上に、10万筆署名運動はあらゆる産別、あらゆる職場に広がっている。労働者大衆から見放されたカクマルが細々と残存する職場にも10万筆署名は持ち込まれ、国鉄分割・民営化とは何だったのかがあらためて大衆的な議論になった。『解放』の反革命論文からは、これに青ざめたカクマルの姿がはっきりと見て取れる。
 2010年4・9政治和解という一大反革命に対し立ち上げられた国鉄闘争全国運動は、国鉄闘争の持つ階級的な求心力を見事によみがえらせた。これにカクマルは根底的打撃を受けたのだ。
 JR北海道を始め全JRで続発する重大事故とJR貨物の経営破綻は、JR体制の大破産を突き出している。しかしJR総連カクマルは、資本が彼らの切り捨てに動く中で、あくまで「国鉄改革の完遂」を叫んで資本の先兵となることを誓う以外に延命の道がない。
 国鉄決戦はもうやめてくれというカクマルの絶叫は、彼らの断末魔のあがきにほかならない。

新自由主義論欠落した化石のような時代認識

 新自由主義を最末期帝国主義の絶望的延命形態ととらえる革共同の時代認識に対し、カクマルは「ブルジョア政府の諸政策のすべてを、のみならず独占ブルジョアジーおよび中小企業経営者どもの経営諸施策までも含めて、一切合財を『新自由主義攻撃』などとゴタまぜにするのは、理論的にはとんだお笑い種でしかない」などと、反論の体もなさない無残なけちつけを試みている。
 日本における新自由主義攻撃は、国鉄分割・民営化を突破口に本格的に始まった。それを率先推進したのがカクマルだ。だからカクマルは、新自由主義とは何かを絶対にとらえられない。彼らは国鉄分割・民営化以降、労働者階級が突き落とされた苦境にまるで関心を払わないし、新自由主義攻撃の核心は労働者の団結破壊・労組破壊にあることを否定してきた。
 驚くべきことにカクマルは次のように言う。
 「既成労働運動指導部の労働運動をのりこえ、職場・生産点において『連合』『全労連』などのナショナルセンターを戦闘的なものにつくりかえるためにたたかうことは、国家独占資本主義の腐朽性がより深まり......労働者大衆が......『労使運命共同体』などのブルジョア・イデオロギーにからめとられている今日においては、いっそう困難を極めている」
 つまり、とっくに破産している国家独占資本主義は今も続いているというわけだ。新自由主義政策への転換も、大恐慌で突き出されたその破綻も、7・1閣議決定への労働者階級の噴き上がる怒りも、まるで存在しないことにされている。約30年前で時間が止まっているのがカクマルだ。
 だが、この化石のような「時代認識」も、黒田寛一の組織現実論にしがみつくカクマルにとっては必然的だ。黒田の組織現実論とは、つまるところ総評民同の存在を前提に、その許容する範囲でペテン的な「左翼」的言辞を弄(ろう)しつつ、観念的・サークル主義的にカクマル組織をつくるというものだった。その前提をなす国独資的なあり方を、中曽根の手先となって自らぶち壊しておきながら、カクマルには黒田の組織現実論にすがる以外に道がないのだ。
 カクマルにとっては連合や全労連の枠を超えた闘いはすべて「ハミダシ」だ。彼らの言う「のりこえ」とは、連合や全労連の枠の中で口先だけの「指導部批判」をしてみせるということだ。しかし、カクマルが超えてはならない枠とする連合や全労連は、大恐慌と新自由主義の崩壊、そして7・1情勢のもとで路線的に破産した。国労内で4・9反革命を実行してきた全勢力も、国労を立ち枯れさせることしかできない無様な姿を先の国労大会でさらけ出した。
 何よりも、路線的・組織的に破産したのはカクマル自身だ。JR総連カクマルのカクマル中央派からの離反とその後の両者の「腐った妥協」、JR総連カクマルからの嶋田派の分裂など、この数十年のカクマルの混乱と崩壊の歴史は、黒田組織現実論の破産を示して余りある。

共産主義の物質的基盤を否定するファシスト

 その対極で、動労千葉・動労水戸―動労総連合は、外注化粉砕・被曝労働拒否の闘いを反合・運転保安闘争路線の貫徹として闘いぬいてきた。反合・運転保安闘争路線こそ、総評に象徴される戦後労働運動の限界をのりこえる路線だ。それは国鉄分割・民営化反対闘争、JR体制下での外注化阻止闘争の中で磨きぬかれ、新自由主義の根幹を撃つ闘いとして発展している。これがカクマルを痛撃したのだ。
 本紙2625号で大原武史同志が反合・運転保安闘争の核心を「労働者相互は、一般的な仲間というだけでなく、本質的にも具体的にも命を預け合う協同関係になります」「動労千葉は、合理化との闘いの核心を労働の協同性と労働者の団結問題に置き、その解体が事故を必然化させることをはっきりさせたのです。しかも、この核心的路線闘争を、労働組合を巡る壮絶な組織戦として貫きながら自らを鍛え上げてきたのです」と提起した。これにカクマルは労働者蔑視をむき出しにしてかみついている。
 その言い分は「資本制的生産における『労働の協同性』は、あくまでも資本によって統合された労働組織において、資本に強制された『協同性』だ」というものだ。マルクスをかたってマルクス主義を解体するカクマルにとって、労働者とはそもそも、資本に強制されなければ共同性も持ち得ない「砂のような大衆」でしかないのだ。
 しかし、資本主義のもとでも労働現場には労働者の団結がある。資本がどんなに合理化を強行し労働条件を劣悪化させようが、労働者はそのぎりぎりの条件の中で、仲間と自分を守って安全に作業する方法、確実に作業を進める方法を見い出していく。もちろん資本はその団結を絶えず解体しようとしてくるが、それに対抗することで労働者が形成・再形成する団結こそ、共産主義社会を建設する基盤になる。
 こうした資本と労働者との対抗関係を徹底的に意識化し、合理化反対を職場における団結の問題として徹底的に貫いたところに反合・運転保安闘争路線の真骨頂がある。
 これに全面的に敵対してきたカクマルは、共産主義の物質的基盤そのものを否定しているのだ。そもそもカクマルの労働者観では、労働者が自ら団結し労働組合をつくり出してきた歴史的事実をとらえることさえできない。労働組合とは何かをまるでわからず、ただやみくもに革共同に悪罵を投げつけてきたのがカクマルなのだ
 カクマルの反革命論文は国鉄決戦の革命性を反革命の側から逆に実証した。9・11郡山闘争をともに闘い、革共同はさらに全力で国鉄決戦を貫徹して11・2労働者集会に攻め上る。JR総連を解体し、全国に動労総連合の組織をつくリ出す。外注化を粉砕しJR体制を打倒する。それは、カクマルを最後的に一掃することと同義である。

このエントリーをはてなブックマークに追加