今よみがえる日大闘争 10万学生がバリケードスト 日帝の階級支配ゆるがした闘い 日大全共闘の大先輩と現役日大生に聞く

週刊『前進』04頁(2953号03面01)(2018/07/02)


今よみがえる日大闘争
 10万学生がバリケードスト
 日帝の階級支配ゆるがした闘い
 日大全共闘の大先輩と現役日大生に聞く

(写真 日大両国講堂で開催された大衆団交には会場に入りきれないほどの学生が結集し、古田会頭は自己批判した【1968年9月30日 両国】)

(写真 演説する秋田明大・日大全共闘議長【68年9月 水道橋白山通り】)

日大の現実は社会の縮図

 武田 日大問題は、5月冒頭のアメフト部の「悪質タックル」から1カ月半経ちました。社会的批判は高まりながらも、日大理事会体制は何も変わっていません。むしろ「第三者委員会報告」で幕引きにしようとしています。これは単なるアメフト問題だけでなく、大学全体の問題であり、安倍政権―森友・加計問題に象徴される「誰も責任をとらない」社会の縮図です。50年前に日大闘争を闘った立場、今の日大の中で学ぶ立場からお話を聞かせてください。6月8日に、法学部学生有志が理事長宛ての要望書を提出したという報道もありますが、学内の状況はどうですか?
 高橋 「偉い人が責任をとらない」構造に、周りはみんな理事会の悪口を言っています。非常勤の先生も、授業の時に遠回しに田中理事長の悪口を言っています。でも「就活に響くから黙っていた方がいい」とおとなしくなっています。
 武田 「今の日大のあり方そのものがおかしい」という話にはなる?
 高橋 はい、そこまで言う人もいます。
 武田 声を上げたアメフト選手については?
 高橋 体育会系は授業にもあまり出席しないから、真面目に勉強している学生とは違うグループという意識だったんですが、今回きちんと声を上げているのが面白いかな、と。50年前だったら体育会は弾圧する側だったと聞きました。
 武田 学内では何かアクションを起こしているんですか?
 高橋 こっそりポスターを貼ったりして体制を批判しています。ビラや立て看板は、学生課が認めなくてできません。「日大はおかしい」と思っているけど、行動したらつぶされるという感覚があります。実際、田中理事長は暴力団と友達ですから。
 鳥越 50年前の日大の学費は高かったけど、今の日大の収入も2740億円(16年度)で、大学の中でも断トツだよね。
 高橋 そのしわ寄せは学生に向かっています。日大事業部という子会社が、学生に事務用品とか水とかを売りつけています。

なぜ闘いは広がったのか

 武田 「日大は半世紀前から何も変わっていない」という指摘があります。そもそも「日大闘争」とは何だったのでしょうか?
 鳥越 きっかけは、1968年4〜5月に暴露された、日大当局の34億円の使途不明金でした。今も大変ですが、当時も大学に子どもを行かせるのは大変なことでした。高額な学費を徴収しておきながら、学生が置かれていた環境は劣悪な状況でした。学生は「俺たちは大変な思いをしているのに、大学は金もうけだけか」と怒っていました。
 68年、日大闘争は経済学部から始まりました。学生会執行部を中心に3代にわたって大学民主化運動が闘われていましたが、検閲制度で自由はありませんでした。先日101歳で亡くなられた日高六郎氏(元東大教授)や芝田進午氏(元法大教授)の講演会も中止にさせられました。
 武田 なぜ日大生の怒りは一気に爆発し、武装してバリケードストライキまで闘ったんでしょうか?
 鳥越 当時は全世界でベトナム反戦闘争が爆発していました。日本では全学連の67年10・8羽田闘争(佐藤栄作首相のベトナム訪問実力阻止闘争)がありました。その闘いで日大法学部の学生2人が逮捕され、大学当局から処分された。こうした状況の中で、劣悪な環境で金もうけに走る日大当局への怒りが結びついて日大闘争が始まったと思っています。
 大学当局が集会を拒否するから無届け集会をやる。処分されて入構禁止になったので校舎前の道路で集会をやる。
 そして、当局は3度にわたる理事会との大衆団交要求にも現れないどころか、集会に集まった学生に対して体育会の暴力集団を使っての襲撃で多くの負傷者を出しました。この事件があった68年6・11をもって日大闘争は、バリケードとヘルメット・角材で武装しました。
 その後私はこの闘いで逮捕・起訴され、裁判を闘うことになりましたが、判決は「大学を良くしようと立ち上がったことは理解できる。しかし方法が間違っていた」でした。あの日大で「他に方法があった」のでしょうか。多くの日大生は自らの行動の一つひとつに納得しながら闘っていました。
 武田 日大闘争は「最大最強の学生運動」と言われています。日大生の意識が闘いの中で変わっていったと思うのですが。
 鳥越 5月21日に初めて経済学部で無届けの集会を強行しました。これは一つの踏み切りで、これまでの大学当局とわれわれのあり方を踏み越えるものでした。大学当局は「すぐに解散しなさい」と言ってきましたが、私たちの決意は固く、大学の警告文を破り捨て、初めてシュプレヒコールを上げました。そして最後にインターナショナルを歌ったら、知っているのはごく一部で、後ろの方から日大校歌に変わっていったのです。「日大を変えるのだから、闘いの歌が必要だ」と論争になって、みんなで話し合った結果インターナショナルを歌うようになりました。
 日大が政治的に未熟なところから、最後的には全国大学闘争の中でも最も先鋭的なところまでいくのは、一つひとつの段階を大衆的な論議を経て、みんなが納得しながら進んでいったからだと思います。納得しないところでは大衆は動かないけど、いったんそこに気がついたらその力はすごいものがあります。白山通りのど真ん中に机を置いて、その壇上で公安警察をつるし上げるところまでやってのけるのです。
 高橋 運動に参加する日大生の中で熱意の違いはあったんですか?
 鳥越 先進的な部分と遅れている部分は確かにあったと思いますが、大衆が納得したとたん一挙に指導的な部分を追い越していくことも起こりえます。先進的な部分がずっと先進的ということはないと思います。東大学生運動はずっと日大の先を走っていると思われていました。東大生は守るものがいっぱいあるかもしれないけど、日大生は「持たざる者」だから真一文字に進む。68年11月に日大闘争が東大闘争と合流していく中で、「東大闘争は日大闘争から学ばなければならない」という価値観の転換が起こり、東大の権威の象徴であった正門に「帝大解体」のスローガンが書かれるようになっていった。だから、私たちはあの当時「東大・日大闘争」ではなく、「日大・東大闘争」と言っていました。

弾圧恐れず今こそ行動を

 武田 「大学は誰のものか?」という問いは、50年経っても変わっていません。日大闘争は突然爆発したのではなく、それ以前の粘り強い闘いを基礎にして火がついた。現在は京都大の立て看板問題が焦点になっています。規制の厳しい首都圏の大学でも最初の一歩は大変ですが、闘う陣形を守り抜いていけば絶対に闘いはつくれるはずです。6月20日付毎日新聞の投書欄で、「このままでは良くないと思うのであれば、教職員組合や保護者任せにせず、学生として行動を起こしてもらいたい」という年配の方から日大生への〝エール〟がありました。今だったら日大生がどんな闘いをやっても世論の9割以上が支持するはずです。
 高橋 弾圧を恐れず行動して、大学を変えなければいけません。何とかしたい学生は膨大にいますが、まだ行動に結びついていないだけです。
 鳥越 闘う団結体をどうつくるか。教職員組合は頑張っているようだが、大学の主人公は学生だと思う。もしそのために協力できることがあれば、協力したいと思っています。
 高橋 きっかけがほしいですね。
 武田 全学連も三崎町(法・経)や世田谷(文理)、江古田(芸術)など日大キャンパス前でビラをまいています。「日大生ガンバレ」だけでなく、他大生もともに声を上げる。
 高橋 後で「あの時に自分はどうしてたんだ」と後悔しないようにしたい。
 鳥越 当時闘った日大生は、今でも「いろいろな問題を抱えながらも自分は闘ったんだ」と誇りに思っている。自分に拍手するような思いでいます。
 武田 当時のベトナム反戦闘争のように、今の学生の決起のバックボーンになる大きな政治的盛り上がり、つまり改憲阻止―新自由主義大学粉砕の闘いをつくっていきたい。日大・東大闘争が告発した矛盾は、半世紀経って何一つ解決されないどころか、むしろ大学と教育が資本の食い物にされる構図は極まってきています。その中で偶然か必然か、日大・東大闘争50周年の今年に日大で矛盾が爆発し、闘う東大生も登場しています。京大に続き、日大と東大から闘いを起こしていきたいですね! ありがとうございました。

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日大闘争 1968年、日大当局の裏口入学斡旋(あっせん)と使途不明金の発覚を契機に学生の怒りが爆発。10万日大生は全学共闘会議(全共闘、秋田明大議長)を結成し、空前の規模の実力闘争に決起した。全学バリケード封鎖の中、同年9月30日には古田重二良会頭に辞任を約束させる約3万人の大衆団交を実現。東大闘争など全国大学闘争に影響を与えた。

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日大闘争年表
1968年
4月15日 20億円の使途不明金発覚(後に合計34億円と判明)
5月21日 経済学部で「無届け集会」始まる
5月23日 「200メートルデモ」闘われる
5月27日 全学共闘会議が発足
6月11日 3度目の大衆団交要求集会に体育会が暴力襲撃。法学部でバリケード占拠
6月12日 経済学部でバリケード占拠、全学スト突入
9月30日 学生約3万人が参加し初の大衆団交
10月1日 当時の佐藤首相が「大衆団交は認められない」と発言
11月22日 東大で日大―東大闘争勝利・全国学生総決起大会
1969年
1月18〜19日 東大安田講堂死守戦をともに闘う
2月18日 機動隊導入、経・法学部のバリケード解除
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