「ペテン的返還」弾劾 不屈の闘い誓った「5・15」

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週刊『前進』04頁(3240号03面02)(2022/04/18)


「ペテン的返還」弾劾
 不屈の闘い誓った「5・15」

(写真 5月15日を「祝賀」ではなく「屈辱」の日と確認し3万人が抗議デモ【1972年 那覇市】)

 1972年5月15日をもって、沖縄は米軍統治下から日本本土に「復帰」したが、それは「基地のない平和な島」を求めた沖縄民衆の願いを踏みにじり、米軍基地を残したまま施政権だけを日本に返す「ペテン的返還」だった。
 佐藤栄作政権(当時)は当初、沖縄に配備された核は撤去し、米軍基地は本土並みに減らすという「核抜き・本土並み」を返還交渉の基本線にすると掲げたが、69年11月の日米共同声明では「(沖縄返還は)ベトナムにおける米国の努力に影響を及ぼすことなく」実現しなければならないとされた。「米国の努力」とはベトナム戦争のことであり、この戦争のためにフル稼働している米軍基地をそっくり残すということだった。そして米軍の判断でいつでも核を持ち込める密約が結ばれていた。
 政府は72年5月15日、この「ペテン的返還」を祝賀ムードで飾るため那覇市民会館で式典を開催したが、隣の与儀公園ではこれに抗議する県民大会が開かれ、結集した3万人が怒りのデモに決起。5・15を「屈辱の日」としてすべての米軍基地をなくす日まで闘うことを誓った。以後、5月15日には毎年、全国から多くの労働者・学生が沖縄現地に駆けつけ、県民大会やデモが取り組まれてきた。
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