戦争阻止へ被爆者は訴える
戦争阻止へ被爆者は訴える
被爆80年8・6広島―8・9長崎反戦反核闘争に向け、長崎の被爆者である土井玞美子さんへのインタビューと、高木美佐子さんの7・12反戦反核集会での発言(要旨)を紹介します。被爆者の訴えに応えて共に闘おう。(編集局)
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青年と共に声上げ続ける
婦人民主クラブ全国協議会福岡支部 土井玞美子さん

----原爆投下を体験されました。
当時6歳の私は戦死した叔父の法事から帰る汽車の中にいました。長与駅(長崎県)で止まっていたとき遠くの方が「ピカッ」と光りました。真っ黄色の見たこともないような光で、次いで爆風が来ました。わずかな時間差で床に伏せ両隣の人が覆いかぶさってくれたのでけがをしないですみましたが、窓ガラスは粉々になりました。
汽車の外に逃げ出していたら線路沿いに服は真っ黒、髪もチリチリになった人たちが逃げてきました。3人組の医学生は肩を組んで「郷里の福岡に戻る」と言っていましたが、真ん中の人はお腹が裂け腸がはみ出ていました。逃げ込んだ防空壕(ごう)には全身にガラスの破片が突き刺さった工員の女性が運び込まれてきました。その夜、火事と米軍による照明弾で遠くに見える長崎の街は明々と光っていました。
翌日、わら草履にモンペ姿で山中を「痛い、痛い」と泣きながら歩きましたが、たどり着いた家もガラスが散らばり、歩けないような有り様でした。
県庁職員の父は、遺体を掘り出して埋葬するために繰り返し爆心地に入ったので、嘔吐(おうと)を繰り返し、髪も抜け、寝たきりになりました。私も体がきつくなり、日がな寝込んでいました。赤ん坊だった妹は片目が見えなくなり、母、兄、親戚の多くが後にがんで亡くなりました。
戦後も、正午を知らせるサイレンが空襲警報に聞こえてずっとおびえていましたね。それと食糧難でした。食べ物は水っぽくてまずいお芋に、家畜の餌だったフスマ(麦の表皮)。ペットのウサギは親戚がすき焼きに、飼い犬も誰かに食われて皮と骨だけになりました。シラミが湧いて大変で髪の毛も短くしていました。だから家族で風呂屋に行くのが娯楽でしたね。何より永らく被爆者への差別があり、姉も「言うたらいかんよ」と繰り返し言っていました。
----原爆投下に至る戦争はアジアへの侵略でした。
父は「県立校だと兵隊にとられる」と兄をミッションスクールに通わせていましたし、母は近所の人と「日本は負ける」と語り合っていました。戦争にあまり協力的ではなかったんでしょうね。でも街角で婦人会が千人針を集め、竹やり訓練があり、しないと非国民と言われる状況でした。母は子どもの頃に皆が天皇の写真の前でひれ伏す中、一人で写真を見上げていたら教師からたたかれたそうです。でも南洋から復員した叔父さんは「『天皇陛下万歳』と言って死ぬ人はいない。皆『おかあさん!』と叫んで死ぬんだ」と私に聞かせてくれました。
近所には朝鮮人の方がいて、周りからいじめられていたそうです。その方たちは戦後、仕事もなくくず拾いなどをしていましたが、母は物が無いなりに物資を融通していました。
戦争からもう80年経ったというけど、未だ終わっていないと思います。日本兵は生きた人を殺して食べることまでしたけど、政府は謝罪もしていない。中国で死刑を言い渡されたけど執行されずに引き渡されたとも聞きます。従軍慰安婦とされた方も永らく声を上げることもできず、今も解決されないままです。お金で黙らせるなんてことではなく、しっかりと謝罪と賠償をするべきです。
----被爆者として体験を語り、8・9ナガサキ闘争を呼びかけておられます。
次なる戦争が迫っているという危機感があります。今の核兵器は長崎や広島の千倍の威力です。そんなものを使ったら地球そのものが滅んでしまう。核戦争は絶対にするべきではありません。引きこもるのではなく、戦争反対を訴えるために出ていきたい。体が動く限り積極的に参加します。そうした場で全国の仲間に会えるのはうれしいですね。最近は近所の人たちも大勢集まって、被爆体験を語る機会が増えています。
警察や軍隊を使って人々の声を抑え込む国のやり方は昔と何も変わっていないし卑怯(ひきょう)ですが、学生・青年の皆さんが立ち向かう姿はとても頼もしいです。一緒に声を上げましょう。
(聞き手・婦人民主クラブ全国協議会福岡支部)
天皇に戦争責任とらせる
改憲・戦争阻止!大行進埼玉 高木美佐子さん

トランプによるイランへの核攻撃を怒りをもって弾劾します。イラン爆撃をトランプは「広島、長崎への原爆投下と同じで、戦争を終わらせた」と言っている。長崎で被爆した者として絶対に許せない。
今日(7月12日)の東京新聞によれば、全国被爆者アンケートで被爆者の7割が「差別と偏見の中で被爆体験を語ることはできなかった」と言っています。私も若い時に「長崎出身だということは言っちゃだめだぞ」「子どもは生まない方がいい」と言われていました。東京で職場の同僚が「絶対、広島、長崎の人とは結婚できないよね」なんてことを普通の会話で言うような状況でした。
国は放射線の影響を認めないし、救済措置もとらない。福島の原発事故も同じですよね。全く放置されているし、放射線の影響ということも言わない。福島の人たちは14年間、沈黙させられている。そういう中で、差別が助長され、拡大している。私たちは被爆者として一緒に闘っていきたいと思っております。
戦後80年、天皇は戦争責任をとることもなく、「慰霊の旅」と称して沖縄、広島を訪問し、長崎を訪問しようとしています。沖縄では学生が一人逮捕・起訴されました。天皇が登場する時、それに伴った国家暴力が出てくる。戦争体制の中で天皇が再登場している、この情勢に負けちゃならないと思います。
天皇ヒロヒトは1945年、天皇制護持、自分自身の命乞いのために、あと一戦、あと一戦と言って沖縄、広島、長崎に犠牲を強いたわけです。その間、多くの人たちが空爆に遭い、被害が拡大しました。あの当時を生きた者としては許すことはできません。
私たちの闘いによって、絶対に天皇に戦争責任をとらせ、天皇制を敗北に追いやる。これからの戦争は核戦争になるわけですから、始める前に絶対に止める、命がけでも阻止する。そういう力を皆さんと一緒につくっていきたい。ご一緒に闘っていきましょう。