9・18柳条湖事件94年 侵略の歴史くり返すな 中国人民への血債かけ日帝打倒を
9・18柳条湖事件94年
侵略の歴史くり返すな
中国人民への血債かけ日帝打倒を


人民虐殺した「天皇の軍隊」
日本帝国主義の敗戦80年に際し、マスメディアはさかんに「戦後80年」キャンペーンを繰り広げている。そこで語られるのは、ほとんどすべてが1941年から45年までの太平洋戦争の記憶であり、大都市への空襲、広島・長崎への原爆投下といった「被害」の歴史だ。しかし、これらは日帝が朝鮮・中国をはじめとするアジア人民に対して行った侵略・虐殺の帰結としてあった。加害の歴史を見据え、二度と繰り返さないために闘うことは日本労働者階級の責務だ。31年9月18日の柳条湖事件を突破口として足掛け15年に及んだ日帝の中国侵略戦争を改めてとらえ返し、再びの中国―アジア侵略阻止へ、10・5反戦デモに大結集しよう。
朝鮮に続き中国の植民地化狙う
日本の近代史はアジア侵略の歴史だ。日本資本主義はその出発点から台湾、朝鮮をはじめとするアジアへの侵略を繰り返し、帝国主義として肥え太ってきた。
19世紀末から英仏露独などの帝国主義諸国が中国の分割支配―半植民地化に乗り出し、鉄道敷設権や鉱山採掘権、租借地や租界などの強奪を一挙に進めた。この中国分割に加わった日帝は1894~95年の日清戦争で台湾を植民地化し、中国人民の反帝民族蜂起として闘われた1900年の義和団事件に際しては「居留民救出」を口実に2万2千人を派兵。以後、「支那(中国の蔑称)駐屯軍」を敗戦まで駐留させ続けた。04~05年の日露戦争ではロシアの租借地だった遼東半島南部の関東州を奪い、天皇直属の関東総督府(後に関東都督府)を設置した。
そして10年には「韓国併合」と称して朝鮮の植民地化を強行する。14年に第1次大戦が開戦すると日英同盟を根拠にドイツに宣戦布告し、租借地・青島を含めた山東半島全域を占領して軍政を敷いた。
これに続く15年には、中国に「21カ条要求」を突きつけた。それは、山東でのドイツ権益の継承、「満蒙(まんもう)」、すなわち中国東北3省と内モンゴルの鉄道敷設権・鉱山採掘権を独占的に日帝に与えること、日本人を中国政府の顧問として政治・経済・軍事の実権を握らせることなどを求めるものだった。日帝は朝鮮に続いて中国を植民地化することを狙い、そのための全面的な侵略統治を実行しようとしたのだ。
しかし、11~12年に辛亥革命が起き、17年にはロシア革命が勝利。19年には朝鮮の3・1独立運動に続いて中国でも5・4運動が激しく闘われ、上海では商店や労働者が21カ条要求の取り消しを求めてストライキに突入した。20年代には香港や上海で、帝国主義軍隊と対決する数十万人のストが繰り返し闘い抜かれた。
武装闘争も含めた抗日闘争の拡大に圧倒された日帝は、侵略に立ち向かう中国人民をさげすんで「匪賊(ひぞく=盗賊や強盗)」などと呼び、日本人の「生命と財産を守る」ためとして出兵を繰り返した。
「日本の生命線」として資源略奪
「満蒙は日本の生命線」(後の外相・松岡洋右)などとして満州に「特殊権益」を求めた日帝は06年、国策会社として「南満州鉄道株式会社」(満鉄)を設立した。満鉄はロシアから奪った鉄道権益を基礎に兵站(へいたん)や補給物資の運搬を行うのみならず鉱山も経営し、巨額の利益を上げて日帝の侵略の要をなした。19年には満鉄付属地の警備などを目的に設置されていた関東都督府陸軍部から関東軍が独立し、強大な権力を握って侵略戦争を指揮した。
関東軍は28年6月には、侵略の先兵として利用しようとたくらんでいた軍閥の指導者・張作霖を満鉄線の車両ごと爆破して殺害し、これを中国側のしわざに見せかけようとした。
そして31年9月18日、関東軍は奉天(現・瀋陽)近郊の柳条湖で満鉄線を爆破する自作自演の「柳条湖事件」をでっち上げ、これを今度は張作霖の息子・張学良のしわざとして中国軍への総攻撃を命令した。そして「暴虐なる支那軍の挑発」に対する「自衛権の行使」だと主張し、「満州事変」と称する中国東北部侵略戦争に乗り出したのだ。
これを単に、関東軍参謀・石原莞爾をはじめとする「軍の暴走に政府が引きずられた」ものと見ることはできない。陸海軍を束ねる「大元帥」であった昭和天皇ヒロヒトは32年1月に発した勅語で、関東軍による中国東北部侵略は「各地に蜂起せる匪賊を掃蕩(そうとう)」するための「自衛の必要上」行われたと断定。ノンジャンやチチハルといった占領地の名前を挙げて「皇軍の威武を中外に宣揚せり」「朕深く其(その)忠烈を嘉(よみ)す(目下の者の行いなどをほめること)」と称賛した。天皇自ら「皇軍」による中国人民の虐殺と占領を賛美し、中国侵略戦争にゴーサインを出したのだ。
かいらい「満州国」
日帝は32年3月、中国東北部を中国から切り離し「満州国」をでっち上げた。中国の人々は怒りをこめて、このかいらい国家を「偽満(ウェイマン)」と呼ぶ。日帝は、辛亥革命で打倒された清国最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を「執政(元首)」、後に皇帝として担ぎ出すことで、日本・中国・朝鮮・満州・モンゴルの「五族共和」「王道楽土」を演出した。しかし、絶対的な「盟主」とされたのは日本であり、日本人が官僚の主要なポストに就いて政治・経済を牛耳った。さらに、日産や三井、三菱などの財閥があらゆる分野に進出して巨利を得た。経済政策の最高責任者であった岸信介をはじめとする「満州国」の支配層は、敗戦後も日帝支配階級の中枢に居座った。
また、日帝が国策として送り込んだ移民は約30万人に上る。在郷軍人会が中心となって組織した第1陣は武装移民そのものであり、関東軍は「戦いかつ耕す覚悟」を求めた。長野などの貧しい農村から集められた「満蒙開拓団」も、中国人民にとっては武力で家屋や農地を奪う純然たる侵略者に他ならなかった。
日帝は団員らを、関東軍を補完する兵力、また治安維持要員かつ対ソ連の「人間の盾」と位置づけていた。そのため、「開拓」先は抗日ゲリラの拠点やソ連との国境付近に集中していた。そして45年8月9日にソ連が対日参戦すると、関東軍は住民を置き去りにして真っ先に逃走したのだ。
抗日戦争を戦い中国人民が勝利
37年7月7日の盧溝橋事件をもって全面的な中国侵略戦争に突入した日帝は、「暴支膺懲(ようちょう)」、すなわち「乱暴な中国をこらしめる」として侵略を正当化した。広範な抗日闘争に包囲された日本軍は、中国共産党と国民革命軍第八路軍(八路軍)が支配する地域・民衆を丸ごと壊滅させる「燼滅(じんめつ)掃蕩作戦」をとった。このジェノサイドを中国人民は「三光(殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くす)作戦」と呼んだ。そして、37年12月から翌38年3月まで行われた南京大虐殺では30万人以上が犠牲になったといわれる。また、「731部隊」として知られる関東軍防疫給水部は中国人民に対する残虐な人体実験を伴う細菌兵器の研究・製造・使用も行った。日本軍が各地で中国の女性たちに性暴力をはたらき惨殺したことも決して許されない。
しかし、中国人民は民族解放・革命戦争として不屈に抗日戦争を戦い抜いた。解放区を拡大し、革命政権を建設・強化しながら日帝の侵略と戦い勝利した偉大な闘いは、49年10月の中国革命への道を切り開いた。
日帝の中国侵略は米英帝との争闘戦を激化させ、41年のアジア・太平洋戦争開戦へとつながっていった。
天皇制を維持し延命した日帝に対し、朝鮮・中国をはじめとするアジア人民は侵略と植民地支配・戦争の責任を問う闘いに立っている。米日帝が再びの中国侵略戦争に突入した今、その存在と闘いに学び、日本労働者階級がアジア人民に対して負っている血債を自覚して闘うことが必要だ。「血債の思想」を力に排外主義攻撃を粉砕し、日帝打倒、中国侵略戦争阻止へ10・5闘争に総決起しよう。
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平頂山事件 日本軍の暴虐
村を襲い3千人を虐殺
「柳条湖事件」から1年後の1932年9月、「満州国」で抗日武装闘争に決起した中国人民は日本帝国主義による石炭略奪の最重要拠点=撫順(ぶじゅん)炭鉱を攻撃した。この闘いに大打撃を受けた日帝が報復として炭鉱近くの村落を襲い、3千人を大虐殺したのが「平頂山事件」だ。
抗日闘争が爆発
31年の柳条湖事件をもって始まった中国東北部への侵略戦争は、中国人民の反日帝闘争に火をつけた。黒竜江省に侵攻した日本軍は中国軍の激しい抵抗で大損害を受け、正規軍の戦いに呼応して学生、労働者、農民が各地に抗日義勇軍を結成した。5〜6万人だった義勇軍は柳条湖事件以後、30万人に増加したといわれる。
「満州国」における日本の権益や日本軍の駐留を認める「日満議定書」の調印式が行われた32年9月15日の夜(16日未明)、抗日義勇軍2千人が手製の銃や大刀、やりなどで武装し、数部隊に分かれて撫順炭鉱を攻撃した。満鉄による撫順炭鉱の経営は、膨大な数の中国人労働者への過酷な強制労働、脅迫・迫害を伴っていた。
抗日義勇軍は採炭事務所や日本人社宅を攻撃して火を放ち、日本人数人が死傷した。日本軍との激戦で50人以上が殺されたが、その勇敢な決起は日帝に大打撃を与え、侵略軍を恐怖のどん底に突き落とした。まさにパレスチナ人民の2023年10・7蜂起と同様の、侵略者に対するやむにやまれぬ決起だった。
村落の壊滅狙う
深刻な打撃を受けた日本軍と警察は報復として翌16日昼、撫順炭鉱近くの平頂山部落に襲いかかった。平頂山部落には400世帯3千人が居住し、大部分が炭鉱労働者と貧農であった。
日本軍は部落を包囲し、「匪賊が来るから逃げろ! すぐ家を出ろ」などと言って強制的に住民を家から狩り出し、全員をがけ下の狭い場所に追い詰めた。そして機関銃で一斉射撃を行い、老若男女の区別なく乳幼児まで全村民を皆殺しにしようとしたのだ。日本兵は積み上がった遺体を踏みつけて歩き、息のある者は銃剣で力まかせに突き刺したと、数少ない生存者は証言している。
さらには、折り重なる遺体に石油をかけて焼いた上、数日後にダイナマイトでがけを崩して土石の中に埋め、家も焼き払った。かろうじて生きながらえたのは10人ほどだったという。
平頂山事件に加え、2万人を殺害した日清戦争時の旅順大虐殺(1894年11月)や南京大虐殺など、「天皇の軍隊」=日帝侵略軍が繰り返した大虐殺の歴史を日本人民は忘れてはならない。