侵略と戦争の「昭和100年」⑤ヒロシマ・ナガサキ 侵略と被爆の歴史くり返すな アジア侵略の帰結ヒロシマ・ナガサキ
侵略と戦争の「昭和100年」⑤ヒロシマ・ナガサキ
侵略と被爆の歴史くり返すな
アジア侵略の帰結ヒロシマ・ナガサキ


アメリカ帝国主義の中国侵略戦争―世界戦争が核戦争として現実化しようとする中で闘われる今夏8・6広島―8・9長崎闘争は歴史的な決戦だ。日本帝国主義・高市は非核三原則の解体を通じた「拡大抑止」強化、米帝との「核共有」、さらに独自の核武装を狙っている。日帝が再び中国を侵略し、人民の頭上に核爆弾を落とすことを絶対に許してはならない。被爆者はその凄絶(せいぜつ)な被爆体験ゆえに帝国主義戦争を憎み、その非人間性を暴く生き証人として、闘う被爆2世・3世と共に自らの解放をかけて帝国主義の被爆者抹殺攻撃と闘い、反戦反核闘争の先頭に立ってきた。1970年「7・7自己批判」は、広島・長崎の原爆の惨禍が日帝のアジア侵略の帰結であったことを徹底的にはっきりさせ、「ヒロシマ・ナガサキをくりかえすな」の闘いに「闘うアジア人民と連帯し、日帝の侵略を内乱へ」「被爆者解放・日帝打倒」の路線を据えつけた。今こそこの原点に立ち返り、中国侵略戦争阻止=核戦争阻止の反戦反核闘争に総決起しよう。
帝国主義の核による虐殺
「被爆者の出発点は、八時一五分(広島に原爆が投下された1945年8月6日午前8時15分:引用者注)以後にあるのではなく、帝国主義侵略戦争への人民の屈服と加担にあった」(全国被爆者青年同盟編『君は明日生きるか』)
われわれ日本労働者階級が「ヒロシマ・ナガサキ」を語るとき、45年8月を出発点とすることはできない。天皇制国家として形成された日帝は日清・日露戦争を通じて台湾・朝鮮を植民地化し、「大元帥」=昭和天皇ヒロヒトのもとで中国―アジアへの全面的な侵略戦争に手を染めた。差別と排外主義に屈して侵略と闘えずに敗北した日本労働者階級は不正義の戦争に動員され、アジア人民2千万人の命を奪った。その帰結が沖縄戦であり、広島・長崎への原爆投下だった。
アジア・太平洋戦争末期、ヒロヒトは「国体」=天皇制護持のためにあくまで降伏を拒否し、沖縄を「捨て石」として凄惨な地上戦にたたき込んだ。日帝がポツダム宣言の受諾も拒否する中、米帝は8月6日に広島に、9日に長崎に原爆を投下した。放射線と熱線、爆風はわずか10秒で街を壊滅させ、広島で約40万人、長崎で約30万人が被爆した。放射性物質を含む「黒い雨」を浴びたり、捜索や救護活動で入市したりした人々も含め、多くの人々が外部被爆・内部被曝にさらされた。同年末までに計20万人以上が死亡し、50年末までにはさらに10万人以上の被爆者が原爆症=放射線障害で命を落としたと推定されている。
また当時の日本には、日帝の植民地支配下で土地を奪われて移住したり、強制連行されてきたりした朝鮮人・中国人も多くいた。朝鮮人被爆者は広島で約5万人、長崎で約2万人に上り被爆者総数の実に1割を占めると推定されている。
帝国主義と核とは切っても切れない関係だ。米帝は一貫して、原爆投下と人民の犠牲を「終戦を早め、数十万の将兵の命を救った」などと正当化してきた。しかし、46年に発表された米戦略爆撃調査団の報告書が、ヒロシマ・ナガサキを〝原爆の効果に関する実験室〟と見なし、「原爆は理想的な兵器」と評価したことが示すように、史上初の原爆投下は、米帝がソ連をはじめ全世界に絶大な軍事力を誇示することで戦後世界体制における優位性の確保を狙ったものでもあった。米帝は2度の原爆投下によって、戦争終結後も多くの人々を放射能で殺し続ける核兵器の「威力」を誇示し、核を支配の維持と延命の切り札としたのだ。そもそも、日帝も戦中に米帝やドイツ帝国主義と同様に原爆開発を試みていた。
原爆被害を隠蔽し命を奪った米日帝
一方で米帝は、被爆者の怒りと闘い、補償要求を恐れ、さらには「軍事機密」を守るために核兵器の残虐さを覆い隠し、被爆の実相を隠蔽(いんぺい)しようとした。米軍は45年9月、「広島・長崎では死ぬべき者は死んでしまい、原爆放射能で苦しんでいる者は皆無」として原爆症の被害を全否定し、連合軍総司令部(GHQ)は報道統制=プレスコードを敷いて原爆をめぐる言論活動や出版・報道を厳しく取り締まった。
米帝は米原子力委員会・国防総省の直轄機関として「原爆傷害調査委員会(ABCC)」を広島・長崎両市に設置し、被爆者を治療ではなく「調査」してデータを収集した。日帝はこれに協力する一方で救護施設をすべて閉鎖し、10年以上も治療を放棄して多くの被爆者を死に追いやった。米日帝は被爆者抹殺を共通の利害として、被爆直後から意識的に被爆者を文字通り見殺しにしたのである。
その先頭に立ったのが戦犯ヒロヒトだった。47年には戦後初めて広島を訪れ、自らの戦争責任を棚に上げて「この犠牲を平和の礎としよう」などと述べ、同年に市が戦後初めて発した「平和宣言」は原爆投下を「世界平和を招来せしめる機縁」と美化した。
被爆者解放=日帝打倒へ
米帝=日帝による抹殺と差別の攻撃の中で、被爆者の闘いは困難を強いられた。だが被爆者の闘いに困難を強いたのは、帝国主義の攻撃だけではない。そこには戦後革命期における日本共産党スターリン主義の許し難い裏切りがあった。当時の日本共産党は、戦前から「唯一非転向で闘った」党として圧倒的権威を持ち、この党の指導下で戦後革命の嵐が巻き起こった。だがこのとき日共は、原爆投下まで行った米帝=米軍を「解放軍」として歓迎し、GHQに全面協力して、原爆症によって日々命を奪われていた被爆者を見殺しにして、戦後革命の闘いと被爆者の核と戦争への怒りとの結合を完全に断ち切っていたのだ。だがそのような中にあっても被爆者は命がけで声を上げ始めた。朝鮮戦争が始まった50年の8・6広島では、GHQと日帝権力による「一切の集会禁止」という弾圧を打ち破る「非合法集会」や、峠三吉『原爆詩集』で有名な福屋デパートからの反戦ビラまきが在日朝鮮人被爆者青年を先頭に闘われた。
54年には3・1ビキニ事件を機に東京・杉並から原水爆の禁止を求める運動が巻き起こり、翌55年8月6日には第1回原水爆禁止世界大会が開催された。さらに56年、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が結成されるに至った。一方で米ソ英仏は競って核実験を繰り返すようになる。
こうした情勢下で闘いへの敵対者となったのが日本共産党スターリン主義だった。共産党は原水禁大会の予備会議で「ソ連の核実験は戦争を防止するためのもの」「ソ連の核実験による死の灰は甘んじて受ける」と主張して「いかなる国の核実験にも反対」という大会宣言の文言に反発し、63年の第9回大会をもって運動を分裂させたのだ。
こうして、核戦争を不可避とする帝国主義を打倒しぬくためには、労働者階級の自己解放闘争を否定し、核開発・核武装によって帝国主義との平和共存を図るスターリン主義をも打倒しなければならないことが鮮明に突き出された。
一方で革共同は、反帝・反スタの旗のもとに61年秋から「米ソ核実験反対」の鮮明な方針を掲げて闘っていた。68年の米原子力空母エンタープライズの佐世保寄港阻止闘争では多くの被爆者が、全学連・反戦派労働者の実力闘争に「貧困と病魔に苦しむ被爆者の気持ちこそ全学連の気持ちだ」と圧倒的な共感を寄せた。
「7・7自己批判」機に闘いが転換
70年の「7・7自己批判」は、日本労働者階級が被爆者への差別・抹殺攻撃を許してきたことを自己批判的にとらえ返し、被爆者解放闘争に決起していく決定的な契機となった。
同年に結成された被青同に結集した被爆2世の青年たちは、日帝の植民地支配の結果として被爆し命や人生を奪われた朝鮮人被爆者の告発と闘いを受け止めるところから出発した。
そして被青同は「『唯一の被爆国』という血ぬられた神話と戦後民主主義的偶像を......打ち砕く。『一億総ザンゲ論』のまやかしと、天皇制イデオロギーとの対決を、〝戦争責任の追及〟として、自己にメスを入れ、帝国主義者に矢をぶちこむ。朝鮮人・中国人・部落民・沖縄県民被爆者へのあがなってもあがないきれない血債を、被爆青年・二世としての自己解放をかけて闘う」(『君は明日生きるか』)という立場で日帝打倒の実力闘争の最先頭に立った。それは、被爆者を利用して戦争犯罪を覆い隠し「平和国家・日本」を演出する日帝の欺瞞(ぎまん)を撃つ闘いだった。
朝鮮人被爆者たちは治療も後回しにされ、その後も民族差別によって「原爆棄民」と言うべき二重三重の苦しみを強いられた。日帝の敗戦後は「日本人ではない」と市民権を奪われ、被爆者健康手帳を持てない人も多くいた。手帳を持つ人も国籍を理由とする差別や制約を受け、多くが体調不良や貧困に苦しんだ。朝鮮へ戻った人々も南北分断や朝鮮戦争に直面し、65年の日韓条約で完全に切り捨てられた。北朝鮮の被爆者に対しては、日帝は責任を完全に放棄している。
しかし韓国では軍事独裁政権下の67年に韓国原爆被爆者援護協会が結成され、同年11月には20人の被爆者がソウルの日本大使館へデモを行って日帝の在韓被爆者抹殺政策を告発した。治療を求めて日本へ密入国し闘った被爆者らもいた。
侵略と強制労働の大拠点
広島と長崎が原爆投下の候補地とされたのは、いずれも日帝の侵略と軍需生産の一大拠点だったからだ。
広島は、1894~95年日清戦争以来、西日本最大の「軍都」として発展した。日清戦争時には大本営がおかれ、明治天皇が戦争指揮のために来広。帝国議会も広島に移り、臨時の首都と位置づけられた。88年に編成された陸軍第五師団は日清戦争に際して朝鮮での戦闘に参加し、1900年義和団事件に際して日帝が清国に派兵した部隊の中心を占めた。40年には〝歴戦の精鋭部隊〟として大本営直轄の師団となった。
宇品港(広島港)は大陸派兵の拠点として整備され、37年には軍属を含めて約30万人を擁する陸軍船舶司令部(「暁部隊」)がおかれた。船舶司令部の周辺には被服支廠(ししょう)、兵器補給廠、糧秣(りょうまつ)支廠が設置された。宇品は、日露戦争、ロシア革命への反革命干渉戦争=「シベリア出兵」、アジア・太平洋戦争と、日帝のあらゆる侵略戦争を通じて延べ数百万人規模の兵士を戦地に送り込む日本軍最大の輸送基地・侵略拠点となったのだ。また呉には1889年に海軍の本拠地=鎮守府がおかれ、1903年には海軍工廠が設置されて「軍港の街」となった。
また長崎は、1874年の「台湾出兵」で明治政府から軍事輸送を受託して以来、「三菱は国家なり」とうそぶき、アジア侵略を通じて肥え太ってきた三菱資本の大拠点=日帝の兵器庫だった。三菱重工業の兵器製作所では、1941年の真珠湾攻撃で主要兵器として使われた九一式航空魚雷も大量に製造されていた。
日本労働者階級がしっかりと見据えるべきは、広島・長崎ともに、侵略戦争継続のためのあらゆる軍需生産拠点が朝鮮人・中国人の強制連行と強制労働の現場そのものであったことだ。「産業報国」の掛け声のもと、過酷な労働や事故、日本人によるリンチで多くの人が命を奪われた。特に長崎では39~45年に計5万人超の朝鮮人が強制連行され、これとは別に海軍などで強制労働させられた朝鮮人も約1万2千人に上ったという(竹内康人『長崎県・朝鮮人強制労働 その歴史否定を問う』)。
さらに、強制連行・強制労働被害者などの強い反対にもかかわらず「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として世界文化遺産に登録された端島=「軍艦島」を含む三菱高島炭鉱をはじめ炭鉱への動員も多く、「慰安婦」=性奴隷とされた朝鮮人女性も多くいた。
怒りを解き放った71年佐藤糾弾闘争
そして、ベトナム戦争下で沖縄人民との連帯にかけ「広島でコザ暴動を!」を合言葉に闘われた71年8・6は、被爆者の英霊化と反戦反核闘争破壊を目的とする首相・佐藤栄作の来広・式典出席に対して被青同を先頭とする実力の糾弾闘争がたたきつけられ、戦後26年にわたり抑えつけられてきた被爆者をはじめ広島市民の怒りを解き放った。
「われわれは、おおくの仲間とともに猛然と佐藤めがけて突進した。『被爆者殺し佐藤帰れ!』『戦争犯罪人=佐藤帰れ!』『人間をかえせ!』とあらんかぎりの声をふりしぼって叫んだ。われわれの怒りのシュプレヒコールはすべての被爆者の声であり、血叫びであり、おおくの被爆者、市民の魂を揺さぶった」(『君は明日生きるか』)。
この被青同の闘いに数千、数万の被爆者、遺族、市民が合流し、佐藤のあいさつは怒りの声にかき消された。被青同は機動隊の壁を突破し、被爆者とともに佐藤のえり首をつかんで糾弾した。佐藤が逃げ込んだ車は人民に包囲され、傘でつつかれ、椅子をなげられボコボコになって平和公園からたたき出された。夜には被青同を先頭に平和公園で反戦大集会が開催され、その後のデモには数万人の人民が続々と合流して暴動的決起へと発展した。
さらに、69年の広大バリケードストライキ闘争を契機に学生や被青同と合流した小西のぶ子氏を会長とする「侵略戦争と対決し、自己解放をたたかう被爆者の会(反戦被爆者の会)」が77年に結成された。小西氏は「天皇や侵略と対決できぬ運動はダメだ」として被爆者も三里塚のような実力闘争に立とうと呼びかけ、三里塚・動労千葉をはじめ全国の闘いに駆けつけた。
8・6―9反戦反核闘争へ
こうした歴史ゆえに広島は核をめぐる国際的な焦点であり続け、帝国主義は「ヒロシマの怒り」を解体することに全力を挙げてきた。2016年には「核なき世界」を提唱しながら核兵器の近代化と核軍拡を進める米大統領オバマが「核のボタン」を持って平和公園を訪れ、被爆者と抱き合って「和解」を演出してみせた。21年には広島市議会が「平和推進基本条例」を可決し、被爆者を「世界平和樹立への礎」として英霊化するとともに「慰霊式並びに平和祈念式を......厳粛の中で行う」として怒りの声と闘いの圧殺を図った。23年の主要7カ国(G7)広島サミットで採択された「広島ビジョン」には「核兵器は......防衛目的のために役割を果たし、侵略を抑止し、並びに戦争及び威圧を防止」と明記された。
そして今、米帝による中国侵略戦争への突入は戦後の核体制崩壊と核戦争の危機を一挙に引き寄せている。核問題は侵略と争闘戦の最大の焦点となり、日帝をはじめ核武装に生き残りをかける帝国主義各国が核政策の歴史的転換を開始した。「地上に置かれた原爆」の爆発としてあった11年の3・11福島原発事故を受けて「脱原発」へかじを切った欧州帝は、今や公然と「原発縮小は戦略的誤りだった」と表明し、英仏帝の核戦力増強に続いて6月にはフィンランドが核兵器の全面禁止解除に踏み切った。25年の核開発・維持費は核兵器保有9カ国で19兆円と過去最高額を更新し、使える状態にある世界の核弾頭は1万発に迫る。
何より日帝は安保3文書改定による非核三原則解体を通じて、核弾頭搭載可能な海洋発射型巡航ミサイルの持ち込み・配備を想定した米帝との「核共有」、さらには核武装をも視野に入れている。日帝の侵略と戦争の結果として生み出された被爆者を「平和の礎」として英霊化し、中国侵略戦争・核戦争に突き進もうとする日帝・高市政権を、中国・朝鮮―アジア人民への血債にかけて打倒し核戦争を阻もう。
帝国主義体制を打倒することこそ、闘う中国・アジア人民との連帯にかけ命を賭して闘いぬいてきた被爆者・2世・3世に応える道であり、核廃絶の唯一の道だ。帝国主義の「平和」のための記念式典など粉砕あるのみだ。中国侵略戦争阻止を真っ向から掲げ、8・6―8・9反戦反核闘争に決起しよう!
(佐々木舜)
【連載終わり】