高市出席の戦争式典粉砕を 被爆者の英霊化許すな

週刊『前進』04頁(3457号02面03)(2026/07/27)


高市出席の戦争式典粉砕を
 被爆者の英霊化許すな


 8・6広島闘争は中国侵略戦争阻止をかけた今夏最大の決戦だ。日本帝国主義・高市政権は中国侵略戦争に一切をかけて突き進んでいる。この中でイラン侵略戦争・パレスチナ人民虐殺を行っている米・イスラエル大使を呼び、改憲と独自の核武装を狙う高市が出席する「平和記念式典」とは、文字通りの戦争式典だ。
 今まさに人民の頭上に爆弾を投下し、核戦争を開始しようとしている帝国主義者らが集まって、いったいどの口で「ヒロシマ・ナガサキを繰り返さない」などと言えるのか! 米日帝国主義による抹殺攻撃と闘い、命がけで核廃絶を訴えてきた被爆者に対する、これほどの裏切りはない。
 8・6は「慰霊の日」「祈りの日」などでは断じてない。核と戦争を生み出す帝国主義を実力で打倒する闘いの日だ。8月6日朝、帝国主義への怒りの実力デモで戦争式典を粉砕しよう。全国から大結集し式典会場に進撃しよう!

「平和国家・日本」の欺瞞

 高市の式典出席は、被爆者を「英霊」化してヒロシマ・ナガサキの怒りを圧殺し、中国侵略戦争に労働者階級を全面的に動員しようとする攻撃だ。中国の軍事的対抗を餌食にして「中国の脅威」と排外主義をあおる高市は、中国侵略戦争突入と核武装の推進を宣誓するために広島に乗り込んでこようとしている。「被爆国・日本には核抑止力強化や核武装をする権利がある」と宣言しようとしているのだ。日帝にとっての8・6記念式典とは一貫して、「唯一の被爆国」「平和国家・日本」という欺瞞(ぎまん)を演出する舞台装置にほかならない。
 しかし、被爆者・被爆2世・3世らの核と帝国主義戦争への怒りは、日帝打倒までやむことのない根底的な闘いとして日帝の前に立ちはだかり続けてきた。
 日帝は敗戦からわずか5年後の1950年に米帝の兵站(へいたん)基地として朝鮮戦争に加担した。日帝の「戦後復興」とは、朝鮮人民虐殺と朝鮮の南北分断をもって、その血と屍(しかばね)の上に築かれたのだ。日帝はこの年の8・6を前に平和集会、デモ、慰霊祭までも禁止した。当日、広島市警察本部は警官3千人を市内に配置し戒厳状態にしたが、徹底的な弾圧体制の中で在日朝鮮人を先頭とする被爆者らは2カ所で非合法集会をかちとり、非妥協的な闘いを開始した。この闘いは日帝の被爆者抹殺攻撃をぶち破り、被爆者解放を求めるものとして爆発していく。
 そしてベトナム戦争下の71年8月6日には、現職の首相として初めて広島の平和記念式典に出席した佐藤栄作に対して、被爆者青年同盟が先頭に立って激しい実力闘争を打ち抜き、佐藤を平和公園からたたき出したのだ。被爆者の「英霊化」と日帝のアジア再侵略を狙う佐藤=帝国主義者のもくろみは粉砕され、76年の三木武夫まで首相の式典出席は行われなくなった。

アジア侵略を繰り返すな

 広島・長崎への原爆投下は、日帝のアジア侵略の行き着いた先だった。日帝は19世紀末以降、台湾・朝鮮を植民地化し、昭和天皇ヒロヒトのもとで中国―アジア人民2千万人を虐殺した侵略戦争に手を染めた。スターリン主義と社会民主主義の指導のもとで日本労働者階級が差別と排外主義に屈して侵略と闘えずに敗北し、不正義の戦争に動員された帰結が沖縄戦であり、広島・長崎への原爆投下なのである。
 にもかかわらず、日帝支配階級は原爆投下によって日本が侵略の責任を免れたかのように描いてきたのだ。被青同はこの欺瞞を厳しく追及し、「7・7自己批判」「血債の思想」をもって闘いに立ち上がった。
 「われわれは被爆が、日本帝国主義百年間の侵略の免罪に使われたことを見逃すわけにはいかない。帝国主義者から日本共産党まで、被爆を利用してきた非被爆者にたいして、被爆者はみずからが被爆したことをもって何ひとつ侵略の責任を免罪していないことをつきつけねばならない。被爆者は、そのようなごまかしに利用されていたことを徹底的に反省し、アジア再侵略を開始する日本帝国主義との闘いをもって、在日朝鮮人・中国人との連帯をかちとらねばならない」(全国被爆者青年同盟編
 『君は明日生きるか』)
 日帝は敗戦後も侵略戦争を居直り、一切の謝罪も賠償も拒否し続けてきた。のみならずその最高責任者であるヒロヒトを沖縄の売り渡しと引き換えに延命させ、被爆者を抹殺し、再びのアジア侵略に血道をあげてきた。そしてベトナム戦争や湾岸戦争、イラク戦争、イラン戦争など米帝の出撃拠点として侵略戦争に加担し続けてきた。これのどこが「平和国家」か!
 また、「平和公園は静かに祈る場」というのも大うそだ。そもそも軍都・広島はアジア侵略の拠点であり、いま「平和公園」と呼ばれている一帯も、バラックやテントで生活していた被爆者を何の補償もないまま警察の暴力によって追い出し、部落民・朝鮮人たちをたたき出して造られた血塗られた場所である。「平和大通り」も同様だ。
 「復興過程においても、自力更生をはかる朝鮮人の生活に、バラック徴収の攻撃をくりかえし、強烈な朝鮮人被爆者への抑圧行政をおこなった。市、県は、彼らをつぎからつぎへ土手や線路のわき、山手に追いやり、いまはそれを不法建築だとして、そこからさえ追いだしている」(『君は明日生きるか』)
 そして1947年8月6日の第1回「平和祭」、12月のヒロヒトの来広に際しては、こうしたバラックが布やむしろで覆い隠されたのだ。これが「平和都市」の実態だった。
 8・6ヒロシマの闘いは、「血債の思想」をもって闘う中国人民―アジア人民と連帯し、日帝の中国侵略戦争突入を内乱に転化する決定的闘いだ。8・6式典粉砕デモへの総決起をかちとろう。
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