吉田素子さんを偲んで 共に闘った日々を振り返る 元相模原市議会議員 西村綾子さん
吉田素子さんを偲んで
共に闘った日々を振り返る
元相模原市議会議員 西村綾子さん


去る3月9日、旧友の吉田素子さん(通称竹尾さん)が90歳で亡くなった。
1970年代、ベトナム戦争が激化し、戦後世界体制を大きく揺るがしていた時代、ペテン的沖縄返還がもくろまれ、日本各地で、反戦反基地闘争が起こり、大学という大学では、新しい全学連運動が燃え上がっていた。時代をどう読むか、今何をなすべきか、噴出する差別への怒りをどのようにとらえて闘うか、変革の力はどこにあるのか、ありとあらゆる課題がこの資本主義体制下の労働者階級に課せられた課題としてとらえ返され、学生も、労働組合も、そして主婦層と言われた女性も、子どもたちも含めて「安保粉砕」の声が人口に膾炙(かいしゃ)していたと思う。
彼女は当時、O公団住宅の自治会長で、私も市内のS公団住宅の自治会長で公団住宅の家賃値上げで反対闘争も懐かしい。O団地の近くには米軍基地の一つ、医療施設があり、ベトナム戦争での死者や負傷兵が送り込まれて、チフス菌の流出が大問題になった時には、O自治会と湘北反戦と当時の婦人会議が共催で抗議集会が開かれ、のちにこの米軍基地の返還につながったのだ。
そんな中で私は吉田さん(当時は岡崎さん)と出会った。友人に誘われて参加したのが、梶村秀樹さんの著作や、朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』の学習会だった。
子どもたちを幼稚園に送り出しては彼女の家に行き、彼女も子どものおやつを作り置きしたり、そこここの掃除などしながら、時間を共にしたことが懐かしい。
父が戦犯で、引揚者であった私が漠然と思っていた「二度と戦争はしてはいけない」ということが、そもそも戦争とは何かを学ぶことで、具体的現在的任務ととらえていったきっかけだった。
時あたかも地元相模原で「ベトナムに戦車を送るな!」の実力阻止闘争が起こると、近くの友人と子どもを預けっこなどしては、補給廠の前に駆けつけた。
71年法政大学で開催された「侵略差別と闘うアジア婦人会議」の結成集会に、岡崎さんの車で連れていってもらい、私はそこで初めて、北富士母の会、三里塚の婦人行動隊、部落解放同盟の女性、そして70年安保闘争で逮捕されたという女性たちの生の声と姿に出会い、もうその日は眠れないほどに感動したのだった。
その意味で竹尾さんは私の恩人であり、悩みを聞いてくれて温かく包み込んでくれる姉さんの一人だった。
その後100日間闘われた戦車闘争の中で見知ったことは、私のその後の人生の原点となった。
竹尾さんは、その後横浜に越されて、私とはしばらくお付き合いがなかった。横浜寿町の路上生活者の支援などしていたと聞いた。離婚し、76年鉄塔決戦を前にした三里塚現地闘争本部常駐となって約半世紀、三里塚の母と言われて、北総台地で生き切った。
支援の戦士たちと苦楽を共にし、農地死守を貫く農民、とりわけ母ちゃんたちの支えとなって日夜走り回っていたと思う。
あなたがいない三里塚は淋しいけれど、「不屈非妥協」が真髄の反対同盟と共に、私たちも勝利の日まで、共に生き抜きます。見ていてくださいね!
友逝きて 北総台地の風となる 反戦の砦に生きて、生き抜いて
半世紀超えて屈せぬ農民の闘志ありて 友現闘に死す
逞しき農夫の意気に添う日々を誇らしげに我に語りし君よ
反戦・反核・農地死守 赤っ風よ吹け こぞりて我ら
小さき手をほどきて 行きし母なりき 母の決意を誇りに今は