岸本豊和同志を追悼する 三里塚・星野に全身全霊込め 三里塚野戦病院 大熊寿年

投稿日:

週刊『三里塚』02頁(1169号02面05)(2025/10/13)


岸本豊和同志を追悼する
 三里塚・星野に全身全霊込め
 三里塚野戦病院 大熊寿年



(写真 最後まで三里塚現地で闘い続けた岸本さん【中央 8月20日】)


 三里塚現闘の岸本豊和同志が9月15日に急逝しました。79歳でした。本当に残念でなりません。岸本同志は亡くなる一日前にも千葉の星野・大坂救援会の総会に参加したばかりでした。
 彼は沖縄がまだ本土に「復帰」する前の1970年12月にパスポートを使って船で鹿児島に来たそうです。沖縄では本土「復帰」の闘いが大高揚する中、本土での闘いはどうなっているのかを自分で直接確かめるため、大学卒業後に本土に来たということでした。71年沖縄では、コザ暴動やゼネストとして本土「復帰」の闘いが大爆発し、本土でも渋谷・日比谷暴動闘争として大爆発しました。
 彼は71年には川崎で就職しましたが、同年9月に三里塚で強制代執行が行われることをビラで知り、急きょ三里塚に駆けつけました。しかし、「本日の代執行は中止」というだまし討ちにあい、帰ってきてしまったことを大変悔やんだと言っていました。
 反対同盟農民が国家暴力・機動隊と真っ向から対決して、不屈・非妥協で闘う姿を見て深い感銘を受け、何とかして三里塚闘争に参加したいと思い続けていたそうです。
 本多延嘉革共同書記長が反革命カクマルに虐殺されたのを契機に、本気で三里塚闘争を闘おうと決心して77年に天神峰部落に入り、反対同盟現地闘争本部に常駐することになったのです。
 主に天神峰部落の農家の援農活動を行いながら、反対同盟と共に50年余にわたって三里塚闘争を闘ってきました。
 とりわけ岸本同志は20年ほど前からは、無実の星野文昭同志の無罪・奪還を勝ちとる闘いに全力を注いできました。さらにその後は、無実の大坂正明同志の無罪・奪還を勝ちとる闘いに決起し、三里塚現闘の先頭に立って精力的に活動してきました。
 千葉救援会の毎月の千葉市街宣、署名活動や会合に必ず参加し、熱心に活動してきました。現闘全体で行う街宣・署名活動の他にも、一人で駅頭署名や周辺地域の署名集めも精力的にやってきました。
 また、NAAによる天神峰強制執行で強奪された星野同志の分骨を千葉救援会、全国事務局の仲間と一緒になって取り返し、反対同盟の岩山記念館入り口に新たにつくったお墓に埋葬しました。その墓づくりも岸本同志が中心になって準備して完成させました。3㍍四方もある立派な墓が出来上がり、4千㍍滑走路南端700㍍の飛行コース直下で、成田空港をにらみ続けています。生前岸本同志が願っていたように星野同志の墓に一緒に埋葬することにします。
 岸本同志は三里塚現闘の先頭に立って星野・大坂救援会の闘いを全身全霊を込めて闘いました。自ら革命家として生き抜くために、本多著作選を何度も読み返して奮闘してきました。署名をしてくれた人や周辺の人に熱い思いを込めて語りかけ、「前進」購読者にしたこともありました。
 他人に語りかけるためにも自らを時代認識と路線で高め上げる努力をしてきました。志半ばでたおれた岸本同志の遺志を継いで、現闘も三里塚闘争・沖縄闘争の勝利、そして何よりも大坂同志の無罪奪還の闘いを全力でやりぬくことを誓います。

このエントリーをはてなブックマークに追加